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 第六章 幕末の動向
   第一節 松平慶永と幕末の政局
     二 開国と安政の大獄
      黒船来航と慶永の活動
 嘉永六年(一八五三)六月三日、ペリー率いる米国艦隊が浦賀に来航し、開国通商を要求した事件は、我が国に非常な脅威を与え、国内はその対応をめぐって騒然となった。襲封以来、福井藩の財政や軍制の改革に懸命の努力を傾注してきた慶永も、強力な外国軍艦が武力を背景として要求を突き付けた事態を、国家の独立自存を危うくする未曾有の国難と受け止め、その打開のために積極的な活動を開始する。いわゆる黒船来航を契機に展開された福井藩や慶永の活動は、中根雪江の筆になる『昨夢紀事』などによって、その詳細を知ることができる。
 幕府は嘉永六年六月九日、久里浜においてペリーと応対し、米国大統領の国書を受理し、和親通商の要求については明年回答することを約束したから、米国艦隊は六月十二日いったん江戸湾を去った。福井藩はこの時、幕府に従って九日より十三日まで、品川御殿山に藩兵を繰り出し警備に当たっている。また、慶永はそれに先立つ六月七日、攘夷論者の急先鋒であった徳川斉昭が、幕府と衝突することを憂慮し、両者の間を調整するために早くも行動を起こしている。その周旋によって、翌八日老中阿部正弘と斉昭の会談が実現し、七月五日からは斉昭が登城して、幕府の海防の評議に参画することとなった。
写真143 「合同舶入相秘記」付図(松平春嶽筆)

写真143 「合同舶入相秘記」付図(松平春嶽筆)

 七月一日に至って、対応策を決しかねた幕府は、米国国書の和訳を諸大名に示し、その意見を求めた。慶永は幕府の諮問に答えるべく、まず国元福井の意見をまとめさせ、さらにそれを江戸藩邸の側近と共に反復評議して修正し、八月六日答申書を提出した。答申の主旨は、開国通商いずれも現時点では拒絶すべきであって、米国使節が明春再渡来した時には、必戦と覚悟を定めて、その用意をしなければならないとする、強硬な鎖国攘夷論であった。そして、そのためには「要地を始として連綿炮台を築き、大・・・・・・(砲)数千門を鋳て是ニ備へ、弾薬を具備し、軍艦を造つて進撃之用ニ充て……軍糧を積蓄へ、必戦策定るの勢を天下之将卒ニ示」す必要があるなどと、大規模な国防計画を表明している(「慶永公建白書類」『松平春嶽全集』)。
 とはいえ、このように大規模な軍備増強計画も、財政的裏付けがなくては、机上の空論に終わってしまう。そこで慶永は、これ以後海防充実のための経済力を、いかにして安定的に確保するか、その具体的方策を次々と幕府へ建言することとなる。右の嘉永六年八月六日の答申書にも、将軍自ら「大倹を修め給ひ、乍恐御一身之御衣食住は雨露飢寒を被為凌候迄」に切り詰め、「後宮(大奥)之奢侈を禁じ、婦人之数を被減、土木之構営は、禁闕(皇居)之外は仮令日光山之御宮たりとも……御見合ニ相成」などど、一大倹政の不可欠であることが説かれている。そして、この後の建言はいっそう具体性を帯びてくる。



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