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 第六章 幕末の動向
   第一節 松平慶永と幕末の政局
    一 慶永の襲封と改革
      その他の改革
 慶永が安政五年五月、本多飛騨に書き与えた右指図書の中で列挙しているのは、(1)政事向の事、(2)明道館文武の事、(3)軍制の事、(4)調練の事、(5)農工商諸政の事、(6)物産の事、(7)航海術の事の七項目である。この年七月、慶永は幕命により隠居・急度慎の厳罰に処せられ、藩主の座を退く。したがって、右の指図書は藩主として家臣に指示を下した最後のものとなったが、当時慶永が目指していた藩政の要点・改革点をよく示している。
 まず(1)では、人心の弛緩を戒め一層厳正な行政の必要を説いている。また、(2)では藩校明道館を中核として、社会実用の学問と教育を振興するよう指示している。幼年期より学問に熱心で、儒学や国学に深い造詣を有し、自ら洋学の学習をさえ志した慶永は、藩勢を隆盛に導く根本が、学運の振起とそれによる藩士一統の資質向上にあると確信していた。そのため嘉永四年五月から、大志あって学業優秀な若い藩士を、積極的に藩外へ遊学させ、他国修行中は藩から学資を援助する奨学制度を設けるなど、諸学の振興、それも最新の学術の自藩導入に努め、当時大坂緒方洪庵の適塾で研学中の橋本左内などが、早速この給費生の恩恵に浴している。さらに、安政二年六月には明道館を開校し、翌三年には橋本左内を登用して学制の改革に当たらせ、洋書習学所・算科局・兵科局・総武芸稽古所などを増設して、教育の充実を図った(第五章第一節・第三節)。こうした学術・教育の充実も、慶永が藩主時代の重要な改革点の一つであり、この時点でもなお新たな展開が図られていたのである。
 (3)(4)は、前に述べた軍備・軍制や軍事調練の改正充実について説いたもので、これまた不断の努力を必要とする改革点であった。
 (5)(6)は、いわゆる殖産興業による富国策の推進を指示したものである。生糸・茶・麻・木綿など藩内諸産業については、種々の振興策が施されたが、とくに慶永隠居後の三岡八郎の活動が最も成果をあげた。三岡は中根雪江・橋本左内と図って殖産通商につき計画をすすめ、安政五年十月奉行長谷部甚平を説得して、まず藩庁の評定で製造方切手五万両の発行を決議させた。翌六年春には長崎に赴いて越前蔵屋敷を設置し、オランダ商館と生糸・醤油などの販売につき折衝をすすめ、帰藩後切手を増発して藩内物資の生産を促進し、物産総会所を開設して産物を集積し藩営貿易の端緒を開いたのである。『由利公正伝』などによれば、この年よりオランダへの生糸・醤油などの販売が開始され、その貿易高は多額に達したという。
 (7)では、造船と航海術の研修を推進するよう命じている。嘉永六年九月、幕府は大船建造の禁止を解除した。それを受けて、福井藩では製造局頭取佐々木権六に洋式船の建造を命じ、権六は研究辛苦の末、安政四年五月長さ三尺(約九一センチメートル)ほどの雛形を完成した。『奉答紀事』には、これを幕府船方役所を通じて、中浜万次郎に見せ意見を徴したところ、「万次郎も権六之構思精到にハ、舌を捲て感賞し、三所斗違へるをいひ教えて全備に至」ったと記している。それより権六は、三国宿浦に造船所を設けて建造に着手し、安政六年竣工して一番丸と命名され、藩用で各地に航海することとなった。また、慶永隠居後の文久三年(一八六三)五月には、米国から一二万五〇〇〇ドルを投じて木造蒸気運送船を購入し、黒龍丸と名付けて各地の航海に運用した。ただし、『海軍歴史』によれば、大砲二門を装備し、乗員六五人のこの船は、翌元治元年(一八六四)幕府へ売却されている。
 こうした造船技術の研究や航海術の伝習などにかかわる努力と実際の運用は、福井藩が積極的な開国通商による富国策の実現を目指したものであった。



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