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 第六章 幕末の動向
   第一節 松平慶永と幕末の政局
    一 慶永の襲封と改革
      兵備・軍制の改革
 慶永の襲封を契機として着手された福井藩の藩政改革は、倹政を柱とする財政復興策ばかりではなかった。天保から弘化・嘉永にかけての期間は、着々と東アジアに勢力を伸張した英・仏・露・米などの欧米列強が、日本沿岸にもしきりに艦船を出没させて機会をうかがい、我が国が鎖国から開国へと転換する外交上の苦悩が始まった時期であった。ことに、アヘン戦争が勃発し、天保十三年南京条約によって、清国が強力な英軍の近代兵器の前に屈服させられた経緯は、いち早く福井へも伝えられた。そのため城下の蘭方医笠原白翁が、嘉永三年正月十三日付で大坂の蘭学者緒方洪庵に宛てた書状(笠原家文書)の中に、「此節忌むべき、嫌ふべき、悪むべき、罵しるべき英夷」と記して、そうした英国に対する憎悪をむき出しにしたように、心ある人々は武力を背景とした欧米の野心を洞察して、警戒心を高めていた。
 福井藩もまた、兵備を近代化して海岸線防御を充実させ、従来の軍制を近代装備に適応したものに改正するなど、欧米の脅威に対抗しうる様々な改革を迫られた。以下「家譜」『奉答紀事』などによって、その状況を概観してみたい。
 弘化四年春、藩はまず砲術師範西尾源太左衛門父子を江戸の高島流砲術家下曽根金三郎に入門させ、洋式砲術と銃陣調練の研究に当たらせた。また、翌嘉永元年八月には三国の富商三国与五郎の献金を得て、江戸から洋式大砲鋳師安五郎を招き、三国道実島の鋳物師浅田新右衛門の工場で、西洋砲一三寸カルロンナーデ・一五寸ホーウイッスル・一五寸モルチールなどを製造し、その技術を新右衛門に習得させる。これが、福井藩における洋式砲術の導入と洋式砲鋳造の発端であり、全国諸藩に比して極めて早い時期に属している。以後、嘉永二年三月には六種一一門を、夏に至り不用の銅器を充当して四門を、同六年六月には九門を鋳造するなど洋砲生産をすすめ、これを領内海岸線の蓑・大丹生・糠・三国宿・安島・浜坂などの浦々へ配備して、演習を盛んにし海防の増強を図った。
写真142 三岡八郎

写真142 三岡八郎

 一方、嘉永六年には洋式小銃の製造も着手される。この年九月、江戸霊岸嶋藩邸内に鉄砲師松屋斧太郎を招き、ゲベール銃の製作を命じ、翌安政元年には、福井泉水邸内に製銃工場を設置したが、製法の未熟と資金不足から、三か年にようやく一〇挺を生産するに過ぎなかった。そこで安政四年正月に至り、佐々木権六・三岡八郎(由利公正)を製造所正・副の頭取に任命し、本格的な兵器生産を推進させることとなる。二人は種々研究を重ね、志比口に鉄砲製造所を、松岡に火薬製造所を建設し、工程を分業して職工の熟練を図るなど増産に成功した。他藩の注文にも応じて、維新後製造所閉鎖までに七〇〇〇挺の洋式銃を製造したと伝えられる。
 このような洋式砲術や調練の導入と洋式兵器の製造は、当然刀・槍・弓矢を中心に編成された従来の軍制の改革へと発展する。まず嘉永三年十二月には、西尾源太左衛門を中心に「御家流砲術」を制定し、一藩の射撃術を実用に重点を置いた洋法に統一した。とはいえ、その時点では藩の所有する洋銃も少数で、内実が伴わなかったから、藩の斡旋により代価を二、三年の年賦とするなど、藩士の小銃新調を奨励し、徐々に洋式銃の充足を図っている。さらに、諸隊の弓組や長柄槍組を順次洋式銃隊に編成替えし、仏式鼓吹笛による部隊教練を実施しながら、嘉永五年・安政元年・同四年と三次にわたる軍制改革を断行した。
 しかし、嘉永五年以降六か年を費やして軍制の改革を終了した時、西欧列強の軍備もまた、格段の進歩を遂げていた。安政五年五月、慶永は江戸詰を終えて国元へ戻る家老本多飛騨に、七項目にわたり領国統治の留意点を列挙した指図書(「家譜」)を、自ら認め手渡している。その第四条に「調練之事」と題して、「是迄家流と相唱候ハ、千八百三十三年(天保四年)式ニて、承知之通り方今と相成候てハ、何分便利簡要之義ニ付、以後ハ千八百五十五年式相用ひ、太鼓同断……夫々へ申聞、早々変革相成候様可致候」と命じているのは、この後も常に新たな改革が加えられたことを示すものである。



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