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 第六章 幕末の動向
   第一節 松平慶永と幕末の政局
    一 慶永の襲封と改革
      改革の始動
 襲封後の慶永は、中根雪江に代表される家臣達の訓育を受けながら、次第に藩主としての資質を錬成し、疲弊しきった藩政の改革を開始する。
 雪江の『奉答紀事』には、天保十年十月一二歳の慶永が、早くも藩財政の窮迫に心を痛めて、一〇〇〇両の定めであった藩主手許金を五〇〇両に半減したことが述べられ、「是、公の御代となりて、御倹約の御手始めなり」と記されている。慶永が少年ながらも、真摯な態度で倹政に取り組もうとした様子がうかがえる。また、翌十一年正月には、雪江が「御先代已来金権跋扈の執政」(『奉答紀事』)と酷評した老臣で、弊政改革上、最大の障害となっていた守旧派の家老松平主馬が罷免され、改革派の家老岡部左膳や側用人天方孫八に実権が移行する事件も起こった。
 とはいえ、慶永の一〇代後半の日記「政暇日記」(『松平春嶽全集』)などを見ると、慶永が藩重役の人事や藩政全般について、実際に中心的な役割を果たすようになるのは、弘化元年(一八四四)、二年の一七、八歳の頃からで、右松平主馬の罷免は、岡部・天方・中根等、藩政刷新を標榜する藩士達の画策であったと思われる。
 いずれにせよ、守旧派老臣の中心人物であった松平主馬が失脚して後、福井藩の藩政改革は強力に推進され始める。やがて、その改革の内容は新時代に対応しうる軍備の充実と軍制の改正、洋学を含む諸学の振興と教育の充実、物産総会所の開設と長崎・横浜における藩営貿易の促進など、多岐にわたって展開される。しかし、天保・弘化から嘉永(一八四八〜五三)年中にかけて、慶永を中核としてまず断行された改革の主眼が、破綻に頻した藩財政の立直しに置かれていたことはいうまでもない。



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