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 第六章 幕末の動向
   第一節 松平慶永と幕末の政局
    一 慶永の襲封と改革
      慶永の福井藩相続
写真140 松平春嶽像

写真140 松平春嶽像

 天保九年(一八三八)十月二十日、福井藩では一一歳の少年藩主松平慶永(春嶽)が就任した。慶永は文政十一年(一八二八)九月二日、徳川三卿の一つ田安家に誕生した。図5に示したように、父の田安家三代当主斉匡は、同じ三卿の一橋家の出身で、十一代将軍家斉の実弟であったから、慶永にとって将軍家斉は伯父、その子十二代将軍家慶は従兄弟に当たっていた。また、寛政の改革で知られる松平定信は従祖父に当たり、兄弟もそれぞれ一橋家や田安家、尾張徳川家を継ぐなど、当時の徳川一族として、最も枢要な血統のもとに生まれ育ったことになる。
 田安家は、初代宗武が賀茂真淵に学んで国学に造詣深く、万葉調の歌人として名をなして以来、学問の伝統があった。また、斉匡の時代には、慶永が自ら幼年時代を回想して記した「慶永幼稚履歴記憶録」(福井市春嶽公記念文庫)に、
余の田安家にある時の模様を云はんに、朝は六ツ半時(午前七時)目覚……大学・論語等読書五ツ半時(午前九時)より也……朝は一菜、昼晩は一汁一菜なり、午餐後直に表へ罷出手習稽古、畢て遊ぶ……書物、大学・論語・読書の本買入る事成らず、借用して稽古す……筆は一月に二本、墨は二月に一挺……其他ほしき物あるとも買入る事能はず、
などと見えるように、質実簡素、きわめて厳格な家風を守っていた。そのような生家の伝統や気風は、慶永のその後の人格形成に大きな影響を及ぼしている。
写真139 「萬事足」の書幅(松平春嶽筆)

写真139 「萬事足」の書幅(松平春嶽筆)

 さて、慶永の先代藩主斉善は、将軍家斉の二四男であり、天保六年八月、一六歳の時十五代藩主に就いた。幼時より多病で、福井藩相続の頃には、眼病のためほとんど失明に近かったと伝えられる。その上、成長した江戸城中での豪奢な生活を、そのまま越前松平家へ持ち込み、我侭の抜け切れぬ有様であったから、「夫が為に御用費の多きは前々の御代に倍外字し、さらぬだに饒かならぬ御国計の、ほとほとつきなんとする勢ひ……申酉凶慊(天保大飢饉)の後に継ぎて、下々の困弊また今日に迫れり」(中根雪江『奉答紀事』)といった状況に立ち至った。天保七年二月、藩は斉善の名で幕府に増高の歎願書を提出し、財政の逼迫を訴えたが、その一節には次のような記述がある(「家譜」)。
拙者家政之儀は……三十二万石ニ相成候得共、豊凶平均凡一ケ年二十九万石程ならでは収納無之……近年に至り候ては年々二万六千両程ツゝ不足相立……必至と難渋ニ落入、唯今ニては古借新借惣高九十万両余之借財ニ相成、当用の運送金も相滞候程の次第に差詰……借財の仕法も尽果……第一不徳にも相聞へ、入国も難出来為体、家老共始役人共一同、心痛至極恐入罷在候、拙者家政之儀は……三十二万石ニ相成候得共、豊凶平均凡一ケ年二十九万石程ならでは収納無之……近年に至り候ては年々二万六千両程ツゝ不足相立……必至と難渋ニ落入、唯今ニては古借新借惣高九十万両余之借財ニ相成、当用の運送金も相滞候程の次第に差詰……借財の仕法も尽果……第一不徳にも相聞へ、入国も難出来為体、家老共始役人共一同、心痛至極恐入罷在候、
年々二万六〇〇〇両余の赤字を繰り越し、返済の目途も立たぬ新旧の借財は、九〇万両余に達しているというのである。しかも、天保の大飢饉は福井でも甚大な被害を及ぼし、藩財政の破綻は目前であったが、斉善は何の手立ても施せぬまま、天保九年七月病没した。
 十六代藩主に就任した慶永が相続した福井藩は、そのような危機的状態にあった。



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