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 第五章 教育と地方文化
   第四節 庶民の生活
    五 女性の生活
      奉公人女性の戸外労働
 女性が、具体的に農作業にどの程度かかわっていたかを記す史料は非常に乏しい。ここでは、安永(一七七二〜八一)期における飯田家の年季奉公の女性たちの労働から、その一端をかいまみることにする(「扣」「巳年一才一日扣」飯田廣助家文書)。史料には、四月から十月までのどの季節にはどのような労働があり、それにはどの程度の人間が必要であったかなどがこと細かく記されている。ここでは女性の労働に限って述べる。飯田家は今立郡東俣村の村役人を勤め、幕末には鯖江藩の大庄屋も勤めた家で、当時は男女合わせて一六人ほどの家来(年季奉公人)を抱えており、そのうち七人は女性であった。
 最も忙しい時期には、女性だけでも一七人が農作業に従事しており、臨時的に村内から多数の女性を雇っていたことがわかる。四月中旬までに男性雇人による田拵えが終わり、女性が必要になってくるのは四月の中旬以降である。短期間ながら苗取りと田植えには大量の労働力が必要で、家来の他に多くの早乙女が雇われた。五月二日までは五月休みとあり、再び大量の女性労働が必要とされてくるのは、この月の後半からである。作業としては田草取りが中心で、一番草から場所により三番草まで、七月いっぱい継続して行われた。一日中腰を曲げて泥水に浸かっての作業は、大変な重労働であったため、とくに一番草の時には大量の雇人が動員されている。その合間に、大豆や稗や芋の草取りもあり、田の畔の草取りも入るが、これらは奉公人の労働によりまかなわれた。七月初めに小麦落とし、麻刈り、大根蒔き、後半には稗かち、八月には臼摺りもある。九月に入ると漆の実拾い、稗籾干入れ、稗摘み、稗の茎を蔵に入れる作業が始まる。引き続いて稲刈りが本格化すると、女性は稲運びと稲架掛けを中心とした作業を任され、これは十月中旬まで続く。落穂拾いが合間合間にあり、粟摘みや蕎麦刈り、小豆引きも行われる。十月以降は、稲扱きが女性の中心的な仕事として行われ、冬を迎える。
 以上の例は、あくまでも使用人としての女性の農繁期の労働内容である。しかし、一般の農家においても、内容そのものは基本的には変わらなかったものと思われる。むしろ家族の労働条件によっては、山草刈り、稲刈りなどはもちろん、畔塗り、肥し持ちなど男性並の肉体労働もこなしていた。一方、夜は男性が藁仕事を中心とした夜なべ仕事をしたのに対し、女性は先述したように衣料に関わる仕事に携わった。



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