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 第六章 幕末の動向
   第一節 松平慶永と幕末の政局
    一 慶永の襲封と改革
      量入制出の見きわめ
写真141 中根雪江

写真141 中根雪江

 九〇万両を超える借財を抱えた藩財政を立て直すという、きわめて困難な職務を最初に担当することとなったのは、中根雪江であった。天保十二年三月、勝手掛に任命された雪江は、まず日懸銀の調達を実施する。慶永襲封の直後、天保十年二月より藩は家中一統に半禄を命じて、財政の危急を凌いでいた。そのため藩士の困窮も極限に達していたから、この時家中半禄を停止し、それに替えて藩士および町方に対して銀千五百余貫を一〇年に分割賦課し、藩庫を充足しようとしたのが日懸銀の調達であった。
 しかし、半禄も日懸銀もそれだけでは抜本的な財政復興には繋がらない。そこで雪江は、「量入制出の廟算」(『奉答紀事』)を定める、すなわち藩の歳入を量り、歳出がこれを超えないように厳密な予算を組んで制限を加える作業に没頭し、従来「出納の小吏国家財用の権柄を握り、私営を恣にし、諸方の賄賂によって貨殖を致し、奢侈を専らにせし弊習を矯正」(同前)することに努めた。松平文庫には、中根雪江や弘化三年冬以降雪江に交代して勝手掛に任命された天方孫八が、「量入制出の廟算」を定めるため努力した際の一連の史料が保存されている。
 その一つ「弘化元辰年改正御地盤御本払帳」(松平文庫)は、弘化元年度の歳入歳出を検討した記録であって、それによれば、この年は七九〇三両余の不足と計算されている。前出天保七年二月斉善時代の増高歎願書には、「年々二万六千両程ツゝ」不足と見えているから、その頃よりは一段と支出引締めが考えられていたことが知られる。
 慶永の「政暇日記」弘化三年七月十八日の条には、前年の藩の収支がかなり好転したとする記事が見える。「家老用有之……御量制御はつきり相立、昨年の所の御入箇帳を以見せ候段申之、尤(勘定)奉行より差出書付」とあって、その書付によれば、巳年(弘化二年)の支出は四万〇二一三両三歩二朱、収入は四万二六一四両三歩、差引二四〇〇両三歩二朱の残金となったというのである。藩財政復興の努力が次第に成果を挙げたことは事実であろう。



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