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 第五章 教育と地方文化
   第四節 庶民の生活
    五 女性の生活
      くりの一生
 勝山後町の作治娘くりは、夫と離縁ののち幼い男の子一人を連れて実家に戻った。しかし母はすでになく、実家は極貧の生活振りで、年老いた父が一人暮らしをしていた。このような家庭なので婿に入ろうという者もなく、父は不憫に思い嫁がせようとするが、くりは年老いた父を残して嫁ぐ気持ちにはなれず、女手一つで老幼の面倒をみることになった。運の悪いことに天明元年には大火による類焼で丸裸になり、しかも次第に飢饉が深刻さを増しつつあったため、近所の人たちにもこの家族を助ける余裕がなかった。このようななかで、くりは年貢地を小作する資力はなかったが、九頭竜河原の砂地を開墾し、七歳ばかりの息子を手伝わせ、麦・蕎麦・大根・芋の類を少しずつ作って生活の足しにした。一方で雇われ仕事、賃仕事、紡績にと昼夜となく励み、自分は粗食に耐え、着る物も着ないで親への孝養に尽くした。父が老衰し起居が不自由になると、介護に精を出し、寝入った合間に息子を側につけておいて作物への肥しやり、薪木にするため川柳の枝刈り、草刈り作業に寸暇を惜しんで働いた。息子には川木を拾わせて冬用に蓄えさせた(「願書留」笠松捷多郎家文書)。以上の話は、為政者の顕彰の意図もあり美化されている面もあるが、離婚した女が一人で生きて行くことさえ困難な時代にあって、しかも、幼子と老父を抱えての生活がいかに大変であったかの一端がうかがえて興味深い。



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