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 第五章 教育と地方文化
   第四節 庶民の生活
    五 女性の生活
      離縁と離婚
 坂井郡田島村は、村高が七八九石余で戸数は平均して六〇軒、人口も平均して二七〇人前後の村である。当村には、文化年間から明治初期までの約五〇年間にわたる「人家増減帳」(池邑善兵衛家文書)が残っている。この史料をもとに結婚および離婚の件数を調べたところ、結婚は一八七件、離婚は五〇件という結果が得られた。それぞれ年に三件、一件の割合となり、一村のみの事例とはいえ、離婚件数は結婚との比較でみる限りかなり高い。再婚については、「再縁之義ニ御座候へ共、先様不縁故罷帰候へハ、少し茂御六ケ敷儀無御座」(勝山市教育委員会保管文書)とされたように、不縁故の離婚・離縁である限り、再婚は少しも障害にはならなかったようである。
写真138 遑(暇)状

写真138 遑(暇)状

 離縁・離婚の原因は、夫の病死や欠落が史料のうえでは最も多く、性格の不一致、姑との折合いが悪い、他に女ができた、不義密通など多種多様である。手続的には、和談のうえあるいは示談のうえ離縁という場合もあるが、大部分は不縁につき離縁という形式をとる。離縁といったんは決まっても、仲介者が間に入って両者に再度意志の確認をすることもあった。まれには、男側が嫁入道具も返さず離縁状も渡さず、一方的に妻を実家に送り帰すといったこともあった。
 しかし、一般的にいわれているように、常に女性が弱者の立場にいたわけではない。例えば、下女に手をつけた夫に対し、今後二度と女を入れないとの夫の一札に目も向けない女性(福岡平左衛門家文書)、離縁にしたものの大勢の子供を抱えて養育に困り果て妻を呼び返した男(天野八郎右衛門家文書)などの例がある。口争いが原因で嫁が実家に帰ったため、両親・子供の世話に困り、山・高・諸道具三分一を譲るなら戻る、との妻側の条件をのんでよりを戻した例もある(林良彦家文書)。離縁が決まると「去状」とか「暇状」あるいは「手間状」ともいわれた離縁状が男性の側から出され、これで正式に離縁が認められた。
 離縁状にはたんに「一札」あるいは「一札之事」とあるものもあるが、三行り半とよくいわれるように、形式も文言も一応は決まっていた。中には六、七行にわたるものもあったが、今後何方へ縁づいても構わないとの文言が必ず入っていた。密通を犯した場合も同様に夫側から離縁状を取った。これは再婚にからんで問題となるケースが非常に多く、「離別之実否者暇状ニ而御座候間」(勝山市教育委員会保管文書)の文言からもうかがえるように、男性・女性ともに正式の離縁状がない限り再婚はできなかったからである。とくに女性の場合は慰謝料の問題もあり、証拠としてもらっておくことが是非とも必要であった。



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