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 第五章 教育と地方文化
   第四節 庶民の生活
    四 子供・若者・老人
      茶代と「あせち」
 老後の社会的な保障がない当時にあっては、自分の生活は自分で守るよりほかなかった。隠居以後の夫婦の生活、もしくは夫なき後の妻の生活を、安定的なものとするための方策が次第に講じられるようになった。大野郡の一部の地域に、「茶代」「茶之代」あるいは「茶代金」と称して、隠居するに当たって山や田畑もしくはお金そのものを留保しておいたり妻に譲ったりする制度がみられた。
 ただし「親父様御死去被成候後母様御存命之内」(西川長一家文書)「此度御両親隠居ニ付御茶用田与而……御高田地共ニ御一生ケ間御支配を被成可被下候」(天野八郎右衛門家文書)の史料からもうかがえるように、その保障は存命中に限定され、死後は再び息子なり家に返却された。さらに進んだ形のものとして、家内が不和になった場合、家の内を囲うか、もしくは隠居家ないし別宅を作るように指示したものもある。この場合、将来起こるであろう嫁と姑の対立が念頭に置かれており、「我等死後ニ至候而も家内睦敷暮可被申候、万一不和之義出来候ハゝ」の文言は、そのことをよくうかがわせる。
 「茶代」と同じような意味で使われた言葉に、「あせち」あるいは「あぜち」がある。「庵室」(あぜち)は、宗教の世界では隠遁者の仮の住まいの意味に用いられていたが、近世の大野郡や敦賀郡の一部では、隠居にともなう言葉として使用され、用語としても「茶代」とほぼ同じ頃からみられる。延宝(一六七三〜八一)期の大野郡の史料には、「あぜち家中屋敷」「あせち分田畑」「親あせち分」(中村孫右衛門家文書)などとしてみられ、田畑や家・屋敷などを親に別に割いて与える際に用いられている。残された史料が少ないので断定はできないが、隠居そのものの意味か、もしくは隠居所や別宅などの場所を指す言葉として使用されていたものと思われる。
 まだ一部の地域でしか確認はできていないが、ある程度の財産を持った農家ではこのような隠居制がとられていたことがうかがえる。老後の生活を考えた財産相続のありかたとしては、注目に値するものであるといえよう。



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