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 第五章 教育と地方文化
   第四節 庶民の生活
    四 子供・若者・老人
      老人の介護
 最初に、引取手のなくなった文政七年(一八二四)の老夫婦の例をあげる。勝山郡町の治右衛門は、年老いてもはや仕事を続けられなくなり、妻ともども組合や近所の人の親切で、なんとかその日暮らしを送っていた。しかし老衰はいっそう進み、耳も聞こえなくなり両目も見えなくなってしまった。妻も夫の看病をするには無理な年となり、近所・組合・親類一家が寄り合い相談の結果、治右衛門は明覚寺に引き請けてもらうことになった。問題は妻の方で、親元と兄弟二人の三人で面倒をみてもらおうとの結論に達した。しかし、三人ともに家計が苦しいとの理由で引き取ろうとしない。再度相談の結果、町内でお金を出し合って食い扶持は出すので、引き取ってくれるよう兄弟の一人に掛け合った。しかし、その家にも老人が一人おり、とても面倒みきれないとの理由で断られた。万策尽き果てて、明覚寺に妻の引取りも頼んだが、一人でさえ困り果てているのに二人とは何事かと、これも断られた。五人組としては火事の心配もあり、老人一人を家に置くことはできず、最終的には藩が強制力で親類へ引き取らせるようにと訴えている(勝山市教育委員会保管文書)。
写真137 『若州良民伝』挿絵

写真137 『若州良民伝』挿絵

 幕府は、寛政元年に続いて文化(一八〇四〜一八)年間にも、各藩に対して領内の孝行・奇特・貞実などの善行者の資料提出を命じた。越前国内では大野藩と福井藩に、それぞれ「御領内孝義録」(斎藤寿々子家文書)、「越前国孝行奇特人行状記」(松平文庫)として残っている。若狭では、早くも安永九年(一七八〇)に『若州良民伝』として刊行されている。これらの資料には、年老いた両親に対し、自分を犠牲にしてまで孝養を尽くす女性が多数紹介されている。その多くは、眼病・中気・長患いなどの病気持ちの老人を抱えた家族である。そこには、老人の看護に精も根も尽き果てそうになっている家族、とくに女性の姿が浮き彫りにされている。
 領主の援助は期待できず、寝たきりになった老人の介護は、結局は各家に委ねられることになる。そして、最終的には食事から起居、さらには下の世話まですべてが女性に押し付けられた。したがって、次のような女性もみられるようになる。この女性は、八三歳になった夫が老衰し、もはや抵抗できないとみてとると、足蹴にしたうえお金・諸道具・味噌・塩に至るまで残らず持ち出し、夫を見捨てて家を出てしまった。老夫は思いあまって、妻の喚問と財産の返却保護、さらには老後の面倒をみてくれる者を捜してくれるよう役所に訴えた(吾田與三兵衛家文書)。



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