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 第五章 教育と地方文化
   第四節 庶民の生活
    四 子供・若者・老人
      若者入りと村での役割
 青年男子の年齢集団である若者組は、「若連中」あるいは「若者中」と称し近世のどの村にもみられた。今立郡下新庄村の場合、「若者交り惣名ニ而元服致者外字廿五歳迄」(福岡平左衛門家文書)とあるように、元服を済ます一五歳で若者仲間に入り二五歳で抜けた。丹生郡新保村の場合は三〇歳までとなっていた(前澤甚兵衛家文書)。ただし、結婚もしくは家督を継いだ場合、あるいは養子に行った場合は仲間を抜けた。入会に際して「十五才ニ罷成候ハゝ仲間入与而、百姓ハ酒弐升、雑家ハ壱升宛可指出事」(同前)とあるように、酒を出して仲間に呑ませ、これをもって入会の証とすることが多かった。
 若者組は、春と秋の氏神の祭礼はもちろん、虫送り・風祭り・雨乞いなど農耕儀礼にともなう祭礼などでは中心的な役割を果した。氏神の祭礼にともなう盆踊りや、神事にともなう相撲・歌舞伎・操り芝居など、諸芸能の興行も彼等を中心に運営された。名替えなどにともなう儀式も若連中が主催したことは、「此度名替若連中・相願われ候ニ付」(東大味区有文書)とあることや、烏帽子着祝にともなう帳面類のほとんどに、「若連中」「若者中」の文言がみられることからも確認される。また、名替えの披露は若者組への入会の儀式を兼ねている場合もあった。その他、火災の防止、他所者から村を守ることなども若者の責務とされた。祭礼は、次第に年中行事化して定着し、しかも本質的には農耕儀礼が核となっているため、休日となっていることが多かった。「若者共休ミ日之儀者先地置証文之通り急度相守可申、若定日之外此末役元へ罷出強勢申立」(久保文苗家文書)の文言からは、次第に若者が休み日の裁量権を握るようになり、時として横暴な行動を取るに至った様子がうかがえる。



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