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 第五章 教育と地方文化
   第四節 庶民の生活
    四 子供・若者・老人
      疱瘡
 疱瘡(天然痘)は、大人になるまでに誰もが一度は罹り、幕末に種痘がもたらされるまでは、最も恐ろしい病気の一つであった。疱瘡で命を落とす子供も多く、女子の場合はたとえ治ったとしても、顔にどれだけ痘痕が残っているかで結婚が左右された。当時の人々の関心が高かったことは、越前・若狭の各地に、疱瘡見舞帳や疱瘡神の由来と称する史料が多数残されていることからもうかがえる。南条郡湯尾峠の茶屋では、「孫嫡子」という疱瘡除けの守札を出していた。また同郡国兼村の大塩八幡宮は疱瘡神北国湯尾大明神を祀り、古来より諸国に疱瘡札を配る特権を与えられていた(「湯尾大明神略縁起」大塩八幡宮文書 資6)。天保三年(一八三二)に当社神主の瓜生雅楽頭は、町在に疱瘡守札を配る許可を福井藩より得ている(同前)。民間では、疱瘡から逃れるために「疱瘡御守札」を戸口に貼ったり、守袋に入れて持ち歩いたりすることも行われた。
写真135 「疱瘡神」神額

写真135 「疱瘡神」神額

 大野郡横枕村の野尻家の佐太郎は、嘉永二年(一八四九)二月九日四歳の時に疱瘡に罹った。彼の場合は幸い無事にやりすごすことができ、吉日に当たる二十四日に湯懸の祝を行っている。湯懸の祝は次のように行われた。本座敷の床の間で恵方に向かって佐太郎を立たせ、棧俵を頭に乗せて上から湯を懸け、続いて疱瘡荒神様の前で拝礼、そのあと荒神様の御幣を御神酒・供物・御灯とともに、恵方の方角に流して儀式は終わった。疱瘡神は、時には命をも奪う恐ろしい神であるが、上手に扱えば、人体の内部に宿る悪い要素を外部に追い出す神でもあった。式のあとは家族・使用人、村のおもだった人を招いて簡単な振舞いをした。また見舞いを届けてくれた家々には、赤飯をお礼に配って歩いた(野尻源右衛門家文書)。



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