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 第五章 教育と地方文化
   第四節 庶民の生活
    四 子供・若者・老人
      子供の遊び
 物心がついた子供たちは、一体どのようにして一日を送っていたのであろうか。農村の子供たちは、農繁期には補助的な形で農作業を手伝わされたであろうし、農閑期といえども藁仕事を通じて家計を補った。これらの作業を通じて、農作業を行ううえでの知識や技術が、親から子供へと自然に伝えられた。また幕末期になると寺子屋に通う子供が多くなり拘束される時間も多少は増えたであろう(斎門六右衛門家文書)。
 とはいえ、子供は遊びのなかから色々なものを学んでいくものである。現代とは異なり、自然に囲まれた生活を送っていた当時の子供たちにとって、動植物とのかかわりも含めて、戸外での遊びが中心であったろうことは想像にかたくない。『日本庶民教育史』は、幕末から明治初期の寺子屋教育を受けた各県の人たちの聞書きからなっているが、越前の部分から子供の遊びを抜き出すと、次のようなものがあげられている。「水泳・石投げ・石弾き・竹馬・鞠投げ・隠れんぼう・山登り・綱飛び・鬼事・相撲・凧上げ・枕引き・腕押し・指相撲・墨付・字明かし・お手玉・鞠つき・折紙・羽つき・雪投げ」などであり、当時の子供たちの遊びの一端がよくうかがえる。男女の性差による遊びの違いや、季節による移り変わりもあらわれている。枕引きとは、木枕の両端を二人が指先でつまんで引っ張りあう遊び、字明かしは、偏と冠と旁とを合わせる文字合わせのことであろう。現在ではほとんどすたれてしまった遊びも多い。その他、正月の遊戯として、時には賭博としても行われた宝引きや投銭遊の穴一などもあった。
 七夕には、多くの寺子屋で星祭りを行った(『日本庶民教育史』)。今立郡五箇村の報告では、前日から父兄も師匠の家に行って手伝い、祭壇を飾って果物や野菜を供え、新しい竹を切ってきて、枝に短冊や紅提灯を繋ぎ万灯を作った。翌日、子供たちは、師匠の付添のもと万灯を先頭に七夕幟を掲げて、「七夕祭るぞ」と叫びながら、太鼓・金盥を叩き村内を練り歩いた。このように、子供の遊びは各種の行事と密接に結びついていた。
 行事に参加した子供は、大人とは違った立場でそれなりの役割を勤めた。遊びとは少し趣が異なるが、楽しみ娯楽の例としてとりあげてみる。例えば、神事祭礼には踊りがつきものであり、倹約令で大人の踊りは禁止されても子供踊りだけは許されたとある(『拾椎雑話』)。また左儀長や村祭り・虫送りあるいは風祭りの際、子供太鼓は欠かせないものであった(同前、勝山市教育委員会保管文書)。特殊な例ではあるが、勝山藩主の小笠原長貴が若年寄になったことを祝って、勝山三町の子供や若者が「にわか」に繰り出すといった例もみられる(松屋文書)。
 大人・子供の別なく流行したものに、かるたがある。『拾椎雑話』には、寛文大地震で一月近くも家業ができず、暇をもてあましてかるたを習ったとあり、あわせかるたから始まって、宝永(一七〇四〜一一)期から正徳(一七一一〜一六)期にかけては「せい」、元文(一七三六〜四一)期には「青二九」が流行ったとある。しかし、これは時として博奕をともなうため、しばしば禁止された。
 最後に子供を対象に出された寛政十二年(一八〇〇)の触を紹介する(勝山市教育委員会保管文書)。触には次のようなことが述べられている。堀の中へ礫を打ったり、魚釣りをすることは厳禁する。城の塀はもちろん家中の塀へ落書きをすることも厳禁するというものである。大人の目を掠めて悪さをする子供の姿を髣髴とさせる。



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