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 第五章 教育と地方文化
   第四節 庶民の生活
    三 通過儀礼
      葬式
 大飯郡高浜村の庄屋の家での葬儀の事例により、その式次第をみていくことにする(常田幸平家文書)。亡くなったのは八〇歳の女性で、嘉永五年閏二月二十日に亡くなると同時に親類に知らせている。道具一式は小浜町の葬具屋で借りることで相談がまとまり、使い二人を出した。乗物・天蓋・竜頭一本・位牌二本・香爐台・四花・大幡頭五・小幡紫白七本・卒塔婆墓印一本・位牌袋などを借り、費用はしめて銀四五匁であった。納棺に先立ち湯潅が行われ、沐浴には三人が当たった。火葬の準備は三人が三度に分けて当たり、万木・炭・藁・莚などが用意された。葬儀当日の二十二日の役割は、明松・霊供・導師幡・幡・盛物・四花・香爐・茶湯・位牌・笠杖・四燈・天蓋・棺・添肩・供・野札などで、それぞれ必要な人数が割り当てられた。浄土真宗妙光寺を頼み野経をあげてもらい、火葬ののち八人が七ツ時(午後四時頃)に灰寄参りを行った。二十三日は「仕上」と称して、寺はもちろん葬儀を手伝った人たち六〇人を招いて食事を振る舞った。二月二十六日は納骨と灰片付けを済ませ、夜は一七日逮夜が行われた。三月四日は忌明け仕上、十三日が三七日逮夜、家内が病気のため二十日のところ二十一日に四七日逮夜、二十七日は五七日逮夜、四月二日は六七日逮夜、本来は四月九日の夜に七七忌(四十九日)が行われるべきところ、都合で朝に逮夜が執行され、これで一応忌明けとなった。逮夜には親類のほか出入りの者など二〇人前後を招いて、食事の振舞いをした。六月三日には百日逮夜がもたれている。
 文政九年(一八二六)の大飯郡難波江村を例にとると、香典は銀や銭を別にすれば、白米・ゆば・なすび・うり・そうめん・かんぴょう・葛・ろうそくなど農作物が多い(山本喜代重家文書)。その他の地域でも、米を中心として農作物を持参する例が多い。香典を持参した人たちを村別にみると、難波江村は別にして、上津・神野・小黒飯・高浜・青・音海・今寺・和田・六路谷・小和田・中山・蒜畑・山中の一三か村と小浜町、神野浦、ほかに枝村と思われる村が二村の計一七か村にも及んでいる。庄屋という地位もあってか広範な地域にまで及んでいる。
写真134 大正末期の野向町竜谷の葬礼

写真134 大正末期の野向町竜谷の葬礼




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