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 第五章 教育と地方文化
   第四節 庶民の生活
    三 通過儀礼
      結婚式
 結婚式といっても一般庶民と豪農層とでは随分違っていた。庶民の場合は、身内だけで済ませてしまうような簡単なものだった。ここでは勝山藩の大庄屋であった、竜谷村の比良野家の結婚式を事例に取りあげる(「永代記録帳」比良野八郎右ヱ門家文書)。同じ勝山藩の大庄屋の滝波村笠川家の娘をもらう内諾を、すでに天保六年に得ており、翌七年早々に村内の庄助を仲人に頼み、結納は二月九日に、結婚式は同月二十三日と決めた。笠川家が家の建替え中でなにかと取込み中であったため、本来は別に行う婿入りを結納と同時に行うことにした。九日は朝六時に夫婦と息子広之助・仲人・親類の者など八人が、笠川家に出向き結納の儀式を済ませた。なお、横枕村のように、結納当日に筆取親(御歯黒親)が立ち会って、歯黒めの儀式を行うようなところもあった。
 結婚式を前に比良野家では、襖の張替えや新しい畳の入替えなどとあわただしい日々が続いた。十七日には代官あてに息子の結婚の届けを出しているが、これは同家が藩の大庄屋であったことによるのであろう。庶民の場合は、藩領違いの村や町に嫁がない限り、特別にこのような手続きの必要はなかった。ただし「宗門人別改帳」には転記しなければならなかったから、旦那寺からの「寺送り状」と村役人からの「村送り一札」が必要であった。
写真133 りを村送りにつき一札

写真133 りを村送りにつき一札

 二十二日に滝波村七郎右衛門を宰領として、大勢の人足を使って嫁入り道具が運びこまれた。式当日、花嫁一向は朝六時に到着、介添えは父の妹の上野五郎右衛門妻が勤めた。式が滞りなく終わったあとは、祝宴が夜まで続けられた。翌二十四日は比良野家の町方の親類を、二十五日は竜谷村の各家の亭主を、二十六日も同様村の嬶を、二十七日は祝をもらった町・郷の懇意の家を呼んで振る舞い、嫁の披露も行った。二十八日に、これまで五日間の料理を取りしきってきた四人の料理人が帰り、ようやく宴を終えた。晦日は嫁くの(いつを改名)の里開き(里帰り)で、実家から人足三人が迎えにきた。くのは三月九日に里から戻り、実家の母に伴われて仲人の家に挨拶に出向いた。四月二日は、比良野家の亭主が息子を伴い、家中および町のおもだった家に御礼廻りに歩いた。
 嫁入りの際の道具は、文化元年(一八〇四)の丹生郡清水畑村の斎藤家の事例でみてみる。そこには九一の品目があげられている。おもなものとして箪笥・長持・櫛台・文庫・鏡・夜着・蒲団・銀簪・笄の他、銭二三匁、銀札八〇匁、金五〇〇疋、その他帯類や衣類が何種類も書きあげられている(斎藤六兵衛家文書 資5)。先述したように庶民の場合は、離縁に関した史料を見る限り、ごくわずかの道具と衣類を持参したにすぎない。当日の食事にしても「平ニハ手前青物、焼物之義鯣二切、汁斗」(大土呂区有文書)とあるのみで、比良野家のように祝宴が何日間も続くといったようなものではなかった。
 嫁入り・婿取りにともなう村入りに際しては、寄合いや祭礼の時に酒を出したり、地域によっては当日に赤飯を配った。明和八年(一七七一)の坂井郡堀水村の史料では、以前は婿取り・嫁取りの祝儀には村人が全員集まったが、村が困窮に陥ったので今後は簡素化を図るとしている。また、この年から高に応じて「直し銀」として、お金で村に出すことにし、社などの修復費用に充てるとしている(高嶋善彦家文書)。
 結婚にともなう習俗として、越前・若狭ともに礫打や、地方によっては水あびせなどがあった。これは、婿入りや嫁入りの行列に小石を投げたり水をかけたりするもので、若者仲間による婚姻祝福儀礼の一つと考えられる。これらの習俗は再三にわたる禁止令にもかかわらずやまなかった。



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