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 第五章 教育と地方文化
   第四節 庶民の生活
    三 通過儀礼
      烏帽子着祝
 男子は一五歳前後になると、青年式としての烏帽子着(元服)祝を行った。大人の仲間入りをするということで、名前もこれを機に変えた。一般的には烏帽子着といわれているが、「村中烏帽子着名改帳」(斎藤吉兵衛家文書)、「元服名替諸事覚帳」(山内源太夫家文書)、「堂附名附改覚帳」(坪川貞純家文書)などからもうかがえるように、名改め・名替え・名付けあるいは名弘めなどとも称された。裕福な家では単独で祝をするところもあったが、多くは村や町で何年かに一度集団で行った。坂井郡上竹田村の「堂附名附改覚帳」には、最初に「堂附」として「三郎兵衛子 猪太郎」といった形式で以下五二人が、続いて「名附」として同じように四三人の名前が列記されている。一般的には生後五〇日前後に行う宮参りを氏子入りと称するが、ここにみられる「堂附」は氏子入りを表現するこの地域独特の言葉と思われる。
写真132 谷のお面さん祭り

写真132 谷のお面さん祭り

 寛保三年(一七四三)の「官頭烏帽子名改帳」(三好与次兵衛家文書)に官頭という言葉がみえ、若狭の村松喜太夫家の「日記」にも同じ言葉がみえる。官頭(地方によってはくわんとう・冠頭・貫頭とも言う)は、正式には官途成といった。官途成とは、もともとは官職に就くことを意味したが、当時民間では正式に家督を継いだり襲名披露をすることを指したから、こうした祝も並行して行っていることが知られる。「官頭烏帽子名改帳」には「官頭 清右衛門子瀬兵衛、烏帽子 清吉、官頭 伝左衛門、烏帽子 伝兵衛子権助」とあるように、官途になると「兵衛」あるいは「衛門」などを称するようになった。官途と同じような意味合いをもつものとして太夫成があった。寛保三年の「烏帽子着一切帳」(能登野区有文書)に、名広めの名列に続いて「是外字太夫……文右衛門 惣太夫、市兵衛 平太夫」とあり、先述の村松家の「日記」にも「名前かへ 百姓太夫成 酒二升」とある。両者の相違については、地域による言葉の違いか年齢による違いかよくわからないが、名替えそのものは元服時のみに限ったものではなく、通過儀礼のそれぞれの段階で行われたようである。
 安永七年(一七七八)の「祝儀事直シ定メ」(大土呂区有文書)に「直し銀」として前髪酒二匁、ゑぼし名一匁、官途名二匁とある。「堂附名附改覚帳」には、以前は二升名・三升名など差出額に違いがあったが、村中で相談して「堂付」「名付」とも今後は銀一匁とするとしている。



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