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 第五章 教育と地方文化
   第四節 庶民の生活
    三 通過儀礼
      嶺北地方の幼年期儀礼
 吉田郡松岡町の事例を初めに紹介する。寛政元年(一七八九)の「おみね平産諸事留帳」(吉野屋文書)によると、この地域では出産前の帯祝いと出産後の「夜伽」が行われている。みねは正月一日に出産するが、前年の七月二十五日に妊娠五か月目の帯祝をしている。この時には家内一一人を含めて、医者・産婆、近所の女性など三〇人を招待し馳走を振る舞っている。費用は赤飯代も含めて銀二七匁六分であった。この儀礼は、安産を祈るとともに子供の生命を守り、多くの人に食事を振る舞うことで胎児に力をつけることを目的として行われた。子供は元旦に生まれたが、その夜から六日まで身内や近所の女性が、少ない日で六人、多い日で一一人が入れ替り立ち替り夜伽をした。鬼に新生児をさらわれないように見張るという俗信から行われた。母親が眠らないように、多くの女性が付き添って大声で喋り続けた。七日目の午後に、出産に関わったすべての人、身内も合わせて四一人を呼んで馳走を振る舞った。見舞返しなどは除き、医者への礼に銀一五匁、産婆へ一〇匁、手伝いの女性に三匁などすべて合計すると一三三匁の出費であった。
 大野郡横枕村の野尻家の二女は、安政二年(一八五五)五月二十八日に出生、六月四日の七夜の祝儀ののち名を広と名付けられた。七夜の祝儀は生後七日目の祝で、この日に名前を付け産婆を呼んで馳走を振る舞った。広が三歳になった同四年十一月十五日に、幼児が初めて髪を伸ばす儀式である髪置の祝が行われている。同六年十月十六日には末子の男子が誕生したが、たまたま父が四二歳の厄年に当たっていたため、二歳子(厄子)は育ちにくいとして、いったんは母方の家に預けられ姓を変えた。十八日に三日祝いとして湯初めの儀式を行った。この儀式のあとに初めて産着を着せてもらい、これでようやくこの世の人間として認知される。同二十二日は七夜の祝が行われ、夕方村人を招いて馳走を振る舞うことで紹介も済ませた。生後三一日目の十一月十六日に、妻の安産忌明けの祝と宮参りが行われた。これは生児を氏神に引き合せ新しい氏子とする儀式であり、これにより共同体の一員としての仲間入りを果たした。この日は赤飯を炊いて祝うとともに村内へも配った(野尻源右衛門家文書)。
 敦賀の産小屋(産屋)での出産事例を紹介する。天保二年(一八三一)の「喜代出産記」(大和田みえ子家文書)に、四月十六日の帯祝、九月十三日の出産、十五日の三日祝儀、十九日の七日祝儀に続いて二十三日に小屋上りとある。この時は一一日目に行っているが、他の出産例では七日目に小屋上りを行うことが多い。短い期間ながら、忌の間は産屋で別火の生活を送り、小屋上りの日は塩で払いの儀式をした後、家に帰り産屋明けの祝をしたものと思われる。



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