田島村においても、長男が家督を相続するかたちは志比境村と同じである。田島村にも隠居の事例が三例あり、うち年齢がわかるのは二例で五三歳と六一歳である。三例ともに跡継ぎはすでに結婚していて、結婚が隠居の契機になっているとは思われない。一世紀半を経過して両村を比較した場合、明らかにいえることは、一つは家名の固定化・世襲化が定着していることである。家督を継いだ時点では幼名であっても、近い時点で家名を名乗るようになる。茂左衛門家の例が典型的で、忠三郎は養子に入ってほどなく旧名から婚家の家名を名乗っている。二つめは、あらゆる手段を講じて家存続の努力を払っていることである。以下例をあげることにする。
次右衛門家と猪左衛門家は、かつては六〇石前後の高を持ち、両家とも庄屋や五人組頭を勤めた家であった。天保二年(一八三一)の史料に、「当村五人組頭次右衛門殿家名跡式之者無御座候ニ付後見善右衛門殿相勤」(池邑善兵衛家文書)とある。弘化四年から嘉永六年の人別帳に、年齢を記載せず「高拾石 次右衛門 跡式」とある。相続者は絶えてしまったが、名家であるため村として形だけ高を付け、善右衛門に管理を任せる形で家名のみ残していた。一方、猪左衛門家は、相続者こそ存在しているものの無高になったため、これも同じく村として高三石余が与えられている。弘化四年から嘉永六年の人別帳には「猪左衛門 廿九才」、注記として「高三石弐斗三升八合 村役引請分」とある。 |