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 第五章 教育と地方文化
   第四節 庶民の生活
    二 家制度と家督相続
      田島村の家督相続
 坂井郡田島村は、村高七八九石余の坂井平野のほぼ中央部に位置する村である。当村にも断続的ながら弘化四年(一八四七)から明治二年(一八六九)までの宗門人別帳が残っている(表163)。他に文化(一八〇四〜一八)年間から明治二年までの「人家増減帳」(池邑善兵衛家文書)もあり、より詳細に家族構成の変化をとらえることができる。高持家は所在不明となる家が一軒あるものの、分家が一軒、水呑から高持になった家が五軒あって、家数は漸増傾向にある。水呑はむしろ減少傾向にあり、二十余年の短い期間ながら変動も激しい。上昇する家もあったが所在不明が三軒、分家が一軒、他村からの転入が五軒みられる。

表163 坂井郡田島村の家数・人数・平均家族人数

表163 坂井郡田島村の家数・人数・平均家族人数

 特徴的な家督相続を何例かみることにする。善右衛門家は持高が七八石余で、嘉永三年(一八五〇)の時点では二六歳と二五歳の家主夫婦と母、弟一人、妹二人の六人家族であった。ところが間もなく善右衛門が亡くなり、兄嫁を妻にして弟が善右衛門を継いで家督を相続した。ところが、その弟も安政元年(一八五四)に亡くなり、妹たちは結婚あるいは死亡により跡を継ぐ者がいなくなった。なお嫁のその後については不明である。一人残った母は、二男が亡くなった時点で善兵衛の次男善助を養子に迎えた。よく似た事例が持高ほぼ六〇石の新左衛門家で、父が早く亡くなったため、わずか一〇歳で倅新十郎が家督を相続した。文久元年(一八六一)に妻を娶り、慶応元年(一八六五)に新左衛門を称し、二人の子供の父となった。ところが、明治元年二七歳で亡くなったため、同年同村の五右衛門倅斉四郎を嫁の婿に迎えた。
 茂左衛門家の場合男子に恵まれず、後妻との間に生まれた倅がかろうじて一人成育した。しかし、倅はまだ幼く跡継ぎになれるかどうかは不確かで、万延元年(一八六〇)に先妻の子の長女に養子忠三郎を迎えた。慶応三年に忠三郎は茂左衛門を名乗り家督を相続、義理の父は忠右衛門を名乗ることになった。



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