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 第五章 教育と地方文化
   第四節 庶民の生活
    二 家制度と家督相続
      志比境村の分家例
 吉田郡志比境村は九頭竜川の左岸に位置し、村の中を勝山街道が通っている。村高は二二六石余で、南にはすぐに山が迫っている。当村には断続的ながら元禄三年(一六九〇)から享保五年までの宗門人別帳が残っている。元禄七年までのものは高持・水呑の別が不明確なので、表162には同十年以降の資料を示した。高持は一七軒から増加傾向にあり、水呑は一〇軒前後で推移していて、人口は男女とも増加傾向にある。一七軒のうち享保五年までに二軒が所在不明となる。分家は新たに九軒増え、享保五年に他村から新たに二軒入った。他に途中から見えまた消える家が一軒ある。所在不明となるのは女性が家主の家である。庄左衛門の長女は元禄十年の時点では二九歳で、家主として二二歳の妹と二人で家を守ってきた。しかし正徳三年(一七一三)の人別帳からその名が見えなくなる。加兵衛後家は夫死後一五年ものあいだ一女を育ててきたが、宝永元年(一七〇四)には水呑(地名子)となり、翌年の人別帳から姿を消す。なお水呑は四軒が所在不明となり、他村から二軒が新たに転入してきている。

表162 吉田郡志比境村の家数・人数・平均家族人数

表162 吉田郡志比境村の家数・人数・平均家族人数

 分家を出す家は徳兵衛・与三左衛門・太右衛門・太兵衛・九兵衛・杢右衛門・七郎右衛門の七家で、うち徳兵衛家と九兵衛家は二家を分家させている。分家する場合、いったんは父なり兄の地内に地名子として別家を持ち、そのあとすぐに高持となるケースが多い。しかし太右衛門家や杢右衛門家のように最初から高持として分家する場合もある。太右衛門の弟重左衛門の場合、元禄七年に二八歳で結婚しいったんは兄の家に同居する。同年分家するが、その際妹も引き連れて出ており、享保五年の人別帳にもその名がみえる。いったんは同居すること、次いで身内の者を連れて分家している。母や姉妹など女性を連れての分家の事例は、後述するように他にもみられる。杢右衛門家の場合は、源七家や徳兵衛家と交替で代々庄屋を勤めた家であり、年季奉公の下男下女を多く抱え経済力があるため可能であったものと思われる。当家の場合、二男勘之丞が元禄十四年一八歳で高持として下男一人を連れ別家独立、宝永二年に平左衛門と改名し同七年には源七の姉を妻に迎えている。



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