目次へ  前ページへ  次ページへ


 第五章 教育と地方文化
   第四節 庶民の生活
    二 家制度と家督相続
      高持・水呑の家族形態
表160 宝永元年(1704)吉田郡
志比境村の家族形態

表160 宝永元年(1704)吉田郡志比境村の家族形態

表161 明治元年(1868)坂井郡
田島村の家族形態

表161 明治元年(1868)坂井郡田島村の家族形態

 表160・表161は越前の十八世紀、十九世紀の高持と水呑の家族形態をおおまかに分類したものである。これをみると夫婦と子供、夫婦と子供に親、あるいは兄弟など多様な型がみられるが、基本的には夫婦と子供の単婚家族である。志比境村の高持と田島村の水呑に一人者が多い程度で、越前においては高持・水呑の別さらには時代の経過にかかわらず、夫婦と子供を中心とした直系型家族が主流であったといえよう。
 次に、特異な家族形態を示す今立郡水海村の例を紹介する。同村の享保二年(一七一七)の宗門人別帳は、家主を先頭に家族の名前、合計何人という形式で一軒ごとに連記されている。家主としてあげられているのは、高持六一軒に地借と神主がそれぞれ一軒の計六三軒である。しかし帳面の末尾には高持六一軒、水呑地借一〇三軒の合計一六四軒とある。帳面には家主と先にあげた地借一軒を除き、地借の五四軒、他に譜代下男、下男・下女などの名称が付されている。おそらく譜代下男が水呑に相当するものと思われ、地借の五四軒と合わせるとほぼ一〇三になる。以下家族の実際の姿を次郎左衛門家でみることにする。
 当家は高六四石余を所持し家主は次郎左衛門で、娘夫婦とその子供二人の計五人は直系の家族である。他に地借が四家族と一人者、譜代下男が一四家族と一人者の下男二人に下女二人、孀が二人で総計九二人である。地借と譜代の違いがいまひとつ明確ではないが、他の家もほとんどが傍系家族を含む大家族であり越前・若狭でも特異な村であるといえる。



目次へ  前ページへ  次ページへ