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 第五章 教育と地方文化
   第四節 庶民の生活
    二 家制度と家督相続
      家の成立と家族構成
 家は子供の養育から老人の介護も含め、成員一人一人の生活を保障する集団である。そこにおいては夫婦を中心に生産と消費が常に行われ、男はもっぱら田畑の耕作、女はそれを補助しつつ家事を担当するかたちで機能を分担していた。「百姓之重宝ハ御田地」(花倉家文書 資7)とあるように、農家(農民)にとっては農業が家業であり、それは一つの財産として家主(家長)から家主へ受け継がれた。家族の構成員は変わっても、家そのものは家業とともに代々受け継がれるようになり、家は家族の生活の基盤として守っていくべきものとする観念が形成されていった。「御先祖外字御譲之家名家督大切ニ可致守護」(毛利長仁家文書)とあるように、代々受け継がれてきた家名(祖名・通名)を継承しようとする風潮も生じ、また家督(田畑・屋敷など)を家産として子孫(長男)に伝えていこうとする意識も強まった。こうして家業・家産・家名が一体となった家を相続し、その家を代々守ってきた先祖の供養を長男が主宰することで、農村においても家制度が徐々に形成されていった。

表157 坂井郡安沢村の家族人数

表157 坂井郡安沢村の家族人数



表158 大野郡橋爪村の家族人数

表158 大野郡橋爪村の家族人数


表159 丹生都大樟浦の家族人数

表159 丹生都大樟浦の家族人数

 表157から表159は十八世紀および十九世紀の越前の三か村における、高持と水呑の家族人数の変化を示したものである。坂井郡安沢村は平地、大野郡橋爪村は山方、丹生郡大樟浦は浦方の村である。高持についてみると十八世紀は四人台半ばであり、橋爪村を除く二か村は約一世紀の間に〇・八人の増加をみている。水呑は地域による違いが大きい。安沢村は三人から一人増えているが、橋爪村は高持が〇・四人の増加にとどまった分、水呑が大幅に増えた。大樟浦の場合は農業より漁業に依存する度合が強いためか、高持との差が当初からあまりみられず、むしろ幕末期には高持より高い数値を示している。水呑については浦方を別にして、家の生業さえ危うい段階から、十九世紀に入りようやく家として安定した段階をむかえる。三か村しか例示しなかったが高持・水呑の家族構成はどの村でもほぼこのような数字がえられる。



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