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 第五章 教育と地方文化
   第三節 新しい学問
    五 町人学者
      木崎外字窓と『拾椎雑話』
 越前・若狭の町人学者については、すでに『通史編3』第五章第三節「学問と文芸」で概略を述べているので、ここでは、木崎外字窓・板屋一助といった町人学者を育てた小浜を中心にみていく。
 小浜では、寛永十七年(一六四〇)の町人の職業の中に「手習子取」二人がみえたり、「西津通り町薬種屋清兵衛少々文字よみ(読)よふを子供に教へける」と記されているように、比較的早くから庶民教育が芽生えていた。さらに、二代藩主酒井忠直が町人に講書させるなどして(『通史編3』第五章第三節)、一七〇〇年前後には好学の者が多くみられるようになった。
 こうした雰囲気を受け継いで、明和元年(一七六四)に小浜町人による最初の地誌が完成する。『拾椎雑話』がそれである。本書は、著者である木崎外字窓が、宝暦七年(一七五七)から町内・領内を巡回して古老から聞取りするなどして、七年後に完成させたものである。
 外字窓は、元禄二年(一六八九)に生まれ、幼名を草三、名を正敏、通称を藤兵衛といい、元文元年(一七三六)から宝暦元年まで小浜の町年寄を勤めた人物である。木崎家の初代は、近江の佐々木六角定頼の次男常珍と伝え、戦乱を避けて若狭遠敷郡木崎村に住してより木崎を姓としたという。外字窓の家は、木崎村から出た本家木崎太郎右衛門家の分家で、代々富沢町に住み、酒造業を営んだ富商であった。一族の中には、和歌や連歌・俳諧、また詩・書・絵画を嗜んだ人物が多く、外字窓も、「夫木集」という歌集を残しているように、彼等の影響を受けて、家業に専念せず地誌の編纂に没頭するようになったと思われる。
 『拾椎雑話』の書出しには、「文治二年(一一八六)より始て私に記せし物、是を若狭守護代記と云……寛文(一六六一〜七三)の頃千賀源右衛門、若狭の伝記を尋ねられし、其事終わらす半途に卒す、門友取拾ひて若耶群譚(談)と号し、元禄年中牧田忠左衛門是に加へ補ひて若耶(狭)郡県志と云、略そなはれり」と記されており、外字窓は、若狭のことを著したものは元禄年間にほぼ備わったと評価している。しかし、「唯俗間に云つき語つきし事は、時去り人替りて差ふ事も又多」いため「今爰に一二を記す」と続けて、これらを補完する形で本書を編集した旨を述べている。
 本書は二八巻からなり、その構成は表155のようになっている。「町名」は項目数が一つしかないが、五二町すべてについて記載がある。「小浜」には、町人の職業や町年寄、米値段、伊勢参宮、祭礼、鍛冶、市場、天候、遊芸、植物、病気など多岐にわたる事柄が記されている。「寺社」「武家」「町家」ではそれぞれの由緒などがとりあげられている。「天変」には災害・疫病のことが、「傷害」には喧嘩や殺人などのことが、「鳥獣」には鳥獣に関する怪異などが記されている。以上の事柄については小浜が中心に記されているが、「郷中」には小浜以外の若狭国内の諸事が記されている。また、他国の諸事を書き上げた「他邦」があるが、学者や学校のことが記された「学譚」、公家や源頼朝などの武家のことが記された「高貴」も他国のことがほとんどである。「異域」には外国のことが記されている。
 このように本編には種々の事柄が一〇八八項目にわたって記されているが、さらに、外字窓は「別巻追加」で五九項目を、「別巻追々加」で一二項目を書き加えている。これらは、外字窓自らが、古い記録を訪ね、足で稼いだ話や、古老から聞取りしたものであり、江戸時代初期から中期にかけての小浜の様子が具体的に記されており、これまでの地誌に記されていなかった庶民の歴史と文化を載せている点に特色がある。

表155 『拾椎雑話』の内容

表155 『拾椎雑話』の内容



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