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 第五章 教育と地方文化
   第三節 新しい学問
     四 大野藩と蘭学
      大野藩の種痘
写真128 大野藩旧蔵洋書類

写真128 大野藩旧蔵洋書類

 嘉永二年七月種痘をとりいれようと、藩主利忠は土田龍湾・林雲渓等に実施を命じた。同三年三月二十日頃、彼等は、福井藩の笠原良策に依頼して痘苗をもらい、煙草屋の小児に接種し、帰宅後七日目に三人に分苗し、いずれも成功した。
 嘉永四年正月には大野郡本戸村の小児に対して、種痘が実施されている。この頃は龍湾・雲渓・中村岱佐が三人で協議し、毎月交替で自宅において種痘を行っていたが、後には利忠の下賜金を元にして一番町に施術所が仮設された。大野藩でも、福井藩の笠原良策のやり方にならって、痘苗を人から人へ植え継ぐという方法をとった。最初人々は種痘に対して、「其法を疑ひ或片輪にして不致信用」治療を受ける者が少なかった。そのため七月には痘苗が絶えてしまい、十一月に福井から新たにとりよせるという状況であった。しかし、その後代官役所に「先達而難有御教諭を等閑ニ相心得、只今致難儀迷惑誠奉恐入御詫申上早速療治致度」という願い出がなされている。村人の意識が変わったのは、本戸村に天然痘が流行した時に、種痘を受けた者は一人も感染しなかったということがあったからであろう(安川與左衛門家文書 資7)。さらに安政元年四月には「自今幼児タルモノ必ス種痘セラルヲ得サラシムルヲ以テ、当該ノ執事能ク市村ニ懇諭シ、小民ニ至ルマテ伝エテ遺スコトナカルヘク、若シ猶ホ命ニ方フモノアルトキハ、厳重ノ懲罰ヲ加フルカ故ニ、一同誤認スルコト勿レ」の諭達がなされ、種痘は強制となり、すべての幼児に実施されることになった。同二年には、これを守らなかった二番下町の孫助が、種痘の義務をおろそかにして不埒であるということで「戸〆」を申し付けられている(「大野藩庁用留」)。また同年四月、同町の七蔵も、二人の子供が天然痘にかかって一人は死亡し、さらにその届出がなかったということで「戸〆」を申し付けられている(斎藤寿々子家文書)。安政四年五月には「まだ種痘をうけていない小児の人数を調べて林雲渓方まで知らせるように」という触書が出された(安達博通家文書)。さらに同年冬には、一番町に病院が新建され主に種痘の業務を行った。万延元年(一八六〇)には高井玄俊と土田龍湾が病院総督となっている。
 しかし、それでもまだ種痘を受けない者がいたので、藩は万延元年六月に天然痘の感染を防ぐため、「天然痘患者と懇意の者が見舞にいく時は、種痘を受けていない子供を連れて行ってはならない」「天然痘に感染した時はすぐに届けなければならない。もし隠しておいた場合は、本人はもちろん町役人も罰する」という内容の触書を出した(布川源兵衛家文書)。さらに同年十月には「天然痘にかかった者は早々に申し出るように、尤も患者はかさぶたのうちは世間に出ることがないように」「天然痘患者がいる家には、種痘を受けていない子供は、たとえ親類であっても一切立ち入らせてはいけない」といった触書を出している(布川源兵衛家文書)。



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