利忠は、大野の蘭学振興の体制をさらに強化するために大坂から伊藤慎蔵を招いた。慎蔵は長州出身であり、緒方洪庵の適塾で塾頭をつとめた人物である。適塾では前出の龍湾・雲渓の後輩に当たる。安政元年にロシア軍艦ディアナ号が天保山沖に現われた時には、通訳として活躍している。
安政二年十二月九日、慎蔵は内山隆佐に伴われて大野にやってきた。翌十日には藩主利忠へのお目通りがかなっている。また、十一日には山崎譲・西川貫蔵も帰藩している。彼等はこの後、助教として慎蔵のもとで藩の蘭学指導に当たることになる。同三年二月二十六日には慎蔵が禄一〇〇石を給せられ、蘭学教授に任じられている。この時藩主利忠の前で行われた「仰渡し」をみると、藩の態度は非常に丁寧なもので、大雪の中遠路大野まで来てくれたことに深く感謝し、藩中の子弟への指導を「偏ニ頼入」っている。また、海防や地震により大破した江戸屋敷の修復などで出費がかさむ中で、一〇〇石の知行と一時金五〇両を与えるなど、慎蔵に対する期待の程がうかがわれる(「大野藩庁用留」)。これ以降慎蔵は、文久元年(一八六一)に辞去するまで蘭学振興の中心にあった。
大野藩では、蘭学修行の目的は西洋技術の修得と実践であるととらえられており、このことはとくに蝦夷地「開拓」に生かされている。蝦夷地「開拓」の総督は内山隆佐であり、彼の伺書に「乍不及漢学・蘭学其他西洋兵学・砲術・築城等之儀研究仕候ハ、唯学ヒ候事ニハ無之、其術を行ひ皇国之御為と存込罷在」と記されていることが、そのことを示している。さらに安政三年五月には、いったん入門した者は漢学・蘭学とも簡単にやめてはならないという諭達がなされるとともに、新たに蘭学館が開設され、慎蔵はその教授方を命じられた。また慎蔵は同年十一月には「明倫館御貯蔵之蘭書類預り」を仰せ付けられ、「外塾書生取扱之儀万端」を任されている(「大野藩庁用留」)。蘭学館開設以後、土田龍湾・林雲渓・吉田拙蔵等は蘭学教授の一線から退き、実務につくようになる。龍湾・雲渓は種痘・病院医療に、拙蔵は大野丸乗船・蝦夷地の探検に従事するようになるのである。蘭学館は翌四年頃から「洋学館」とよばれるようになる。大野藩旧蔵の書籍の蔵書印に「大野藩洋学館」とみえることから(『大野藩等旧蔵図書目録』)、「洋学館」が単なる通称でなく公式の名称として用いられていたことがわかる。 |