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 第五章 教育と地方文化
   第三節 新しい学問
     四 大野藩と蘭学
      明倫館の蘭学教育
 藩政改革に先立って、士民に対する教育の重要性を考えた利忠は、天保十四年七月学校創設の令を出し、学問所を設置した。校舎がないために仮に藩の会所に授業所をおいた。そして渡辺順八郎・内山隆佐・高井玄俊・中井玄仙を世話役とした。この時、倫常を明らかにし、礼儀を示し、士民を衿式するために学校を設けたので藩士はいうまでもなくその他志願の者は入校するように、という諭達がなされている。
 弘化元年(一八四四)四月に校舎が新しく完成し、利忠により明倫館と名付けられた。明倫館においては、国学・漢学・蘭学・医学・習字・習礼等の授業が行われた。世話役の一人の内山隆佐は兄の七郎右衛門とともに、利忠のもとで藩政改革の中心となった人物である。とくに蝦夷地「開拓」に力を尽くした。明倫館においては「教授師并幹事方兼務」となっている(「土井家家臣由緒書」)。

(準備中)

図27 大野藩蘭学者門人関係一覧



表152 越前出身の適塾入門者

表152 越前出身の適塾入門者

 嘉永元年正月には文武の件について「学問之儀ハ新規に明倫館造営申付、家中之者者申ニ不及、町在之者迄も忠義之志厚く礼儀を相弁へ候様ニと配慮いたし候事ニ候」という直書が宣示せられている。藩士だけでなく庶民に対しても門戸が開かれているのは明倫館の特色の一つといえよう。「家塾寺子屋ヲ設クル従来各自ノ意ニ任セ、当時敢テ之ヲ牽制セサリシモ、一般藩校ニ入リ業ニ就クヲ得ルヨリ、漸ク之ヲ廃スルニ至レリ」(『日本教育史資料』)とあり、庶民の藩校入学のため家塾や寺子屋が廃校にいたったという。このことから、一般庶民もかなりの人数が明倫館に入学していたと考えられる。
 利忠はとくに蘭学を重視しており、弘化二年には土田龍湾(玄意)と林雲渓を大坂の適塾に留学させて蘭方医学を学ばせている。龍湾はさらに江戸へ出て杉田成卿にも学んだ後に帰藩している。明倫館において蘭学教育がどのようになされたかはよくわからないが、嘉永二年の段階で、すでに藩士の中に龍湾を教頭として蘭学を学ぶ者がいたという。その中に『柳陰紀事』の著者である吉田拙蔵もいたと思われる(「吉田拙蔵畧伝」土井家文書)。拙蔵はさらに同六年には、江戸で杉田成卿の門に入っている。また、安政二年(一八五五)七月には中村岱佐が長崎に留学しており、同年八月には山崎譲と西川貫蔵が大坂の適塾に入門している(「大野藩庁用留」土井家文書)。
 明倫館においては、安政元年十月には土田龍湾、同二年五月には吉田拙蔵、同年十一月には林雲溪と長崎から帰藩した中村岱佐が、蘭学世話役に任じられ蘭学の指導を行っている(「大野藩庁用留」)。



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