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 第五章 教育と地方文化
   第三節 新しい学問
     三 蘭学と医学
      明道館の蘭学
 福井藩の藩校明道館においても蘭学の講義が行われている。明道館における蘭学の振興に力を尽くしたのが橋本左内である。左内は天保五年、藩医橋本彦也の長男として生まれ、弘化二年に済世館に入学して漢方医学を学んだ。嘉永二年大坂の緒方洪庵の適塾に入学し、西洋医学を学んだ。同五年、父の死により家督を相続し、御外科を命じられる。さらに同七年には江戸に出て、坪井信道、杉田成卿に学んだ。安政三年九月二十五日に、「明道館幹事」に抜擢され、さらに同四年一月十五日には「学監同様心得」を命じられている。そして同年四月十二日に明道館内に洋書習学所が設置される。
 「明道館御用留抜書」(松平文庫)には「蘭学之儀ハ兵制・軍器・医術等彼が長を被為取候事と奉存候」とあり、洋書習学所においても蘭学を学ぶ目的として、西洋諸国の長所を学んで我国の科学に足らない部分を補足して「皇国をして益万国に勝れ候様」にすることがあげられている。そして、「尊皇攘夷之方彼之所長を知り候事肝要なるへし、而して彼之所長を知り候事ハ、其学術技芸を致講究候事最急務たるへき」としている。さらに「新奇を喜ひ正法を厭棄し外国を夸称して、皇国を軽卑致し候様之心得違」いがないように、またすべて明道館の規則に基づいて洋書習学を行うように命じられている。また、「明道館規条」(『旧福井藩学校諸規則』)には「医術・軍器・天文・地理等、其我ニ取テ皇国ノ用ニ成スモノ亦少ナカラス、因テ其人ヲ撰テ是ヲ学ハシム」とある。これらのことから、蘭学を学ぶのはあくまでも技術的・実用的な面であり、思想的な面ではないという「和魂洋才」的な考え方がうかがわれる。
 洋書習学所における教授は従来医学所において教導していた者がその任に当たった。早速、坪井信良が教授に任じられ、岡部養竹・益田宗三等も洋学句読師を申し付けられた。また、以前より洋学を学んでいた者も明道館で修行するよう仰せ付けられている(「明道館御用留抜書」松平文庫)。
 しかし、安政五年、藩主慶永が隠居謹慎を命じられ、左内も幽閉させられてからは、洋書習学所はだんだん不振におちいり、細々としたものになっていった。
 この他の若越諸藩の藩校において洋学の講義を取り入れたのは、後述する大野藩だけである。ちなみに小浜藩の順造館で洋学が行われるのは明治に入ってからである。



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