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 第五章 教育と地方文化
   第三節 新しい学問
     三 蘭学と医学
      福井藩の種痘
 笠原良策は種痘を福井に伝えたことでも有名である。種痘とは人体に牛痘膿を接種することにより免疫を与え、疱瘡(天然痘)の感染を防ごうとするものである。良策は書物等でこれが有効であることを知った。過去に長崎の蘭方医の要請でオランダ船が東南アジアから痘苗(ワクチン)を持ち帰ろうとしたが、一度も成功しなかった。良策は福井藩を通じて幕府に要請して、東南アジアからでなく清国から痘苗を取り寄せようと考え、弘化三年(一八四六)、藩に痘苗輸入の嘆願書を提出した。その中で輸入の費用は自分がもつとまでいっているが、藩役人等の不理解により結局藩主の耳には届かなかった。嘉永元年(一八四八)に再び嘆願書を提出し、中根雪江等の協力をも得て藩主慶永の裁下を経て幕府に出願し、清国から取り寄せることができた。同二年七月、清国から届く前に、オランダ船がもたらした痘苗が蘭館医モーニッケの手で長崎の小児に接種され成功した。九月にはこの時の痘苗が良策の師である京都の日野鼎哉のもとに送られており、長崎へ向かう途中の十月五日、京都を訪れた良策はもはや長崎に行く必要がなくなり、京都で鼎哉とともに一般への接種に当たった。この頃大坂の緒方洪庵のもとにも伝苗がなされている。十一月、いよいよ福井へ伝苗する。京都までの伝苗は痘痂(かさぶた)の形で行われたが、これでは失敗する可能性が高かったため、良策は福井伝苗に当たってはより確実な、人から人へ植え継ぐ方法をとった。十六日小児二人に接種し、十九日、見点を見定めたうえで、あらかじめ福井から雇い入れておいた二人とともに京都を出発した。二十二日、福井の児に接種、二十四日、念のために府中で医師斎藤策順等に依頼して、別に雇い入れておいた三人の小児のうち一人に今庄で接種した。二十五日に福井に到着し、これ以後種痘を広めていったのである(笠原家文書など)。安政二年には、済世館の東に除痘館が併置された。
 種痘はその後、各地へ広まっていった。府中の医師斎藤策順等は、良策の福井伝苗の過程で今庄で接種された小児三人を連れ帰り、府中の子供に植え継いだ。これが府中伝苗の初めである。鯖江藩には嘉永三年三月九日、藩医の土屋得所等を通じて福井から伝苗されている。後述するように、大野藩にも福井から伝苗がなされ種痘が行われた。その他、金沢・富山・敦賀・勝山・丸岡・金津・三国などへも福井から伝苗がなされ、痘災を免れるにいたったのである。



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