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 第五章 教育と地方文化
   第三節 新しい学問
     三 蘭学と医学
      福井藩の医学
 福井藩においては、旧来、医学に関しては、栗崎家等に伝わる南蛮医学を例外とすれば、漢方医学がその中心であった。医師には、藩医と町医があったが、藩医では御匙医を最上格とし、本道(内科)を扱う御医師、針治療を行う御鍼医、眼科の御目医、御外科がいた。彼等はそれぞれ、表医師と奥医師に区別されていた。また、町医から藩医に取り立てられた者を御目見医とよんだ。藩医は世襲であったが、相続する子の器量によって格式や知行を増減することもあった(『福井県医師会史』)。
 文化元年十月、御匙医であった浅野道有が、十三代藩主松平治好に随行して江戸に滞在している時に建議したことにより、同二年福井鍛冶町の道有宅を仮校舎として医学所が設置された。六月には済世館と改称されている。道有や妻木栄輔が同館担当となって、「傷寒論」や本草に関する講義が行われた。同六年には土居の内に屋敷を賜り校舎が新築され、同七年十月に完成している(『福井県医学史』)。
 一方、福井藩における蘭方医学は、笠原良策(白翁)等の活動がその初めとされている。良策は足羽郡深見村に生まれ、江戸で医業を学んで、天保(一八三〇〜四四)の初年福井に開業した。次いで京都の日野鼎哉に蘭方医学を学び、帰ってこれを実施した。これが福井における洋医開業の初めといわれる(前『福井県史』第二冊第二編)。
 安政三年(一八五六)から済世館においても、従来の漢方医学に加えて蘭方医学を兼修させることになった。蘭方医半井仲庵等を教授に任命、さらに江戸から坪井信良を招いて講師とした。この漢蘭兼学については、優秀な者は別にして、並みの者は漢蘭どちらかだけでも習熟は困難であるのに、兼学となってはどちらも習熟できないということになりかねないので、能力を吟味して人数を限るべきであるという意見も出された。しかし、同四年には、医師の子弟は八歳になったら明道館に入学して学文を修行し、一三歳で済世館に入り医学を研究することが仰せ付けられている。済世館では、漢方の「傷寒論」「金匱要略」、洋方の「医範提綱」『解体新書』などの素読が済んだ者を萌生と呼び初級とし、さらに漢方の「素問霊枢」「難経」「千金方」「外台秘要」、洋方の「内科撰要」「和蘭薬鏡」などの素読が済んだ者を進業生と呼んだ。その上に成業生、得業生へと進む者がおり、得業生になると医官として重職に就くこともあったという(「家譜」)。
 また、万延元年(一八六〇)には、解剖医学の推進のために長崎から紙製人体模型「キュンストレーキ」(男体)が金八〇〇両で購入されている。これは、我国に同時に三体輸入されたうちの一体である。他の二体は幕府と加賀藩がそれぞれ購入したという。
 他の若越諸藩においては、勝山・大野・府中では藩校で医学の教育が行われており、丸岡・鯖江・小浜でも科目に医学はないものの、藩によってなんらかの形で、医学を学ぼうとする者への助成が行われていた(表151)。

表151 若越諸藩の医学教育

表151 若越諸藩の医学教育



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