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 第五章 教育と地方文化
   第三節 新しい学問
     三 蘭学と医学
      『蘭学事始』
 杉田玄白が晩年、蘭学の創始・経過を記したものに『蘭学事始』がある。これにより『解体新書』完成の経緯をみてみよう。
 宝暦四年、玄白二二歳の時、京都において、山脇東洋により日本で初めて公の許可をうけての解屍が行われた。玄白はこのことをきいて、オランダ医学に大きな関心をもつようになった。東洋に許可を与えた京都所司代は小浜藩主酒井忠用であった。
写真127 杉田玄白像

写真127 杉田玄白像

 明和八年、オランダ商館長一行が江戸長崎屋に滞在していた。この時常連の一人である中川淳庵が訪れると、通詞からオランダの解剖書『ターヘル=アナトミア』を見せられ、希望者があれば譲ってもよいともちかけられた。淳庵がそれを持ち帰り玄白に見せたところ、玄白はもとより一字も読めはしないが、内臓や骨などの図に大変興味を持ち、ぜひ購入したいと考えた。しかし、高価であったので、玄白は江戸家老岡新左衛門を説得し、藩費で購入してもらった。
 明和八年三月四日、玄白・良沢・淳庵は江戸小塚原で腑分けを見学する機会を得た。彼等はこの時、腑分けされた人体と『ターヘル=アナトミア』の解剖図とを比較し、その正確さに感動を覚え、翻訳を決意したのである。良沢もまた玄白と同じものを長崎で購入していた。
 腑分けの翌日から良沢の家で翻訳が開始された。しかし、三人のオランダ語の知識は、良沢が青木昆陽にオランダ語の手ほどきをうけ、長崎にも行ってはいるが七〇〇位の単語がわかる程度、淳庵は少し知っているという程度であり、玄白にいたってはほとんど何も知らないという状況であった。まさに「艫舵なき船の大海に乗り出せしが如く」手も足も出ない状態といってよいであろう。まずわかりやすいところからということで、全身の外形を示してある図からとりかかったが、「眉と云ふものハ目の上に生じたる毛なりと有る様なる一句も、彷彿として長き日の春の一日にハ明らめられず」、作業はなかなか進展しなかった。それでも一年も努力すると訳した単語の数は増え、西洋人の考え方もわかるようになってきた。やさしい所では一日に一〇行以上訳すこともあった。春にオランダ商館長の一行が長崎屋にやってきた時には以前よりかなり詳しい質問ができ、また江戸で腑分けがあれば見に行ったり、時には動物の体を切り開いて調べたりもした。このように苦心に苦心を重ねて約一年半でおよその翻訳が一通りできた。さらに玄白は一一回にわたって原稿を書き直し、安永三年ついに『解体新書』を完成させた。
 その後、玄白・淳庵等は、医師としての名声を得ただけでなく、多くの弟子を育成し、蘭学の発展に力を尽くした。



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