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 第五章 教育と地方文化
   第三節 新しい学問
     三 蘭学と医学
      杉田玄白と中川淳庵
写真126 中川淳庵像

写真126 中川淳庵像

 杉田玄白は、享保十八年小浜藩医杉田甫仙の子として江戸に生まれた。母は難産のため死亡している。父の小浜詰のため少年時代は小浜で過ごし、ふたたび江戸に戻って、医学を西玄哲に、漢学を宮瀬龍門に学んだ。宝暦三年(一七五三)、五人扶持で召し出され、明和六年(一七六九)には家督を相続し三〇人扶持となっている(「安永三年小浜藩家臣由緒書」)。寛政五年(一七九三)には新知二二〇石が与えられ、文化元年(一八〇四)には五〇石を二男甫仙(後の立卿)に分知するが、同二年に五〇石が加増された。同四年、老年のため御屋敷への「出仕御用捨」を願い出(「文化八年由緒書」)、同十四年八五才で死去した(「嘉永三年由緒書」)。
 中川淳庵は元文四年(一七三九)小浜藩医中川家の三代目として江戸に生まれた。少年期より薬の研究に親しみ、青年期にはひとかどの本草家として知られるようになっていた。宝暦七年には平賀源内が主催する薬品会に数種の薬品を出品、明和三年には宇田川玄随等とともに薬品会を主催している。同五年には稽古料三人扶持が与えられ(「安永三年小浜藩家臣由緒書」)、同七年父の隠居のあとをうけて家督を相続し、一二〇石が与えられた。安永七年には藩の奥医師を仰せ付けられ、天明元年(一七八一)には二〇石加増され都合一四〇石となる。同五年初めての小浜行きの後、同六年四八才で死去した(「文化八年由緒書」)。
 玄白・淳庵は小浜藩医であったが、彼等の活動場所は大半が江戸であった。



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