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 第五章 教育と地方文化
   第三節 新しい学問
     三 蘭学と医学
      蘭学の始まり
 寛永十六年(一六三九)の鎖国完成以来、日本人にとってヨーロッパからの情報はほとんど閉ざされた状態であった。こうした中で例外といえるのは、長崎の出島に滞在を許されたオランダ人を通じての情報であった。そこで生まれたのが蘭学である。蘭学とは、文学や物理学といった特定の学問の分野を指すのではなく、オランダ語を通じて輸入され受容されたヨーロッパの学術・文化・技術の研究、その他ヨーロッパについての知識一切を含めたものを指すが、とくに医師によってその研究が多くなされたため、まず医学の分野で蘭学は発達していったといえよう。
 近世において最初にオランダ語を学んだのは、オランダ通詞であろう。オランダ通詞の起源を明らかにすることはできないが、鎖国以前は平戸で、鎖国後は長崎において活動し、公的な職業人としてその集団を形成していた。彼等の任務は貿易取引のための通訳が主なものであり、実用的な会話、作文、翻訳などを行っていた。さらに通詞は、一年に一度、オランダ商館長一行が将軍への拝礼に江戸へ参府する折に同行し、通訳を行っている。この時一行は江戸の長崎屋を宿舎としていたので、ここには多くの江戸の学者が集まり、通詞はいわば日蘭の学術交流の橋渡し役を演じていたともいえる。
 また通詞の中には、オランダ人医師との接触から医術に関心を持ち、学びとる者も現れてくる。その中には西玄哲のように、通詞を辞して幕府に召され奥医師となった者もいる。このような通詞たちの医学(主に外科)は紅毛流などとよばれ、その成立は十七世紀の終わり頃といわれている(『長崎県史』対外交渉編)。
 ただ彼等の医学の多くは、あくまでもオランダ人医師の介添えなどの中から生まれたものであり、後世のようにオランダ専門書の翻訳による体系的組織的学習の成果ではない。この点からいえば、オランダ通詞の医学をもって蘭学の始まりとすることはできないであろう。しかし、彼等が後の江戸の蘭学者たちに与えた影響ははかり知れない。青木昆陽や前野良沢なども通詞からオランダ語を学んでいるし、長崎の大通詞であった吉雄耕牛は、『解体新書』が訳出された時にその校訂をし、序文を書いている。
 系統だった学問としての蘭学の始まりは、享保(一七一六〜三六)期と考えられる。八代将軍徳川吉宗が禁書の令を緩和して漢籍によるヨーロッパの学術の輸入を認めたこと、野呂元丈にヨーロッパの本草学を学ばせ、青木昆陽にオランダ語の学習を許したことは有名である。さらに、安永三年(一七七四)には、『解体新書』が翻訳刊行されている。その翻訳の中心となったのが前野良沢・杉田玄白・中川淳庵である。良沢はオランダ語を昆陽に学び、さらに長崎でオランダ通詞に学んでいる。
 『解体新書』の刊行を契機にして、その後、半世紀くらいの間に蘭学は順調に発展した。語学を基礎にして医学から薬学・本草学・化学、さらには天文学・暦学にまで広がっていった。



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