目次へ  前ページへ  次ページへ


 第五章 教育と地方文化
   第三節 新しい学問
     二 国学の発達
      伴信友と東條義門
写真125 伴信友像

写真125 伴信友像

 若狭小浜からは、江戸時代後期伴信友と東條義門が登場し、国学史上不朽の業績を遺した。伴信友は、小浜藩士として藩主酒井忠貫・忠進に仕え、江戸・京都・小浜を往来しつつ、奥取次格御側記録方・近習者頭役などを歴任した。青年期より本居宣長の著述を学んで国学に開眼し、享和元年宣長没後の門人となって、宣長の養嗣子本居大平から懇切な指導を受けた。文政四年四九歳で家督を譲り、隠居の身となってからは学事に全力を傾注し、平田篤胤・藤井高尚・足代弘訓・屋代弘賢などと交流して、江戸学界の重鎮と目されるようになった。「神名帳考証」「瀬見小河」「長等の山風」「若狭旧事考」「比古婆衣」「残桜記」「中臣祓詞要解」など著書三〇〇巻、古典の校訂二六〇巻に及び、篤胤・橘守部・香川景樹と共に、天保国学四大家に数えられる。
 信友の学風はきわめて周到・緻密なもので、師宣長を畏敬しつつも、独自の境地を拓いた。ことに歴史・考証の分野では異彩を放ち、確証のない私見は、決して表明しない態度を貫き、弘化三年七四歳の時、京都で没した。
 伴信友と同じ頃、小浜妙玄寺(浄土真宗)の住職であった東條義門は、本居宣長・同春庭の著述を愛読して、国文法の研究に志し、両者を超える優れた研究成果を遺した。本居春庭の著書「詞八衢」は、動詞の活用や「てにをは」との接続について考察したもので、活用研究者に大きな影響を与えた。義門はその書に疑義を覚え、文化八年二六歳の時、「言葉の八衢疑問」を認めて春庭に呈している。また、文政六年に刊行した「てにをは友鏡」は宣長の「てにをは紐鏡」と春庭の「詞八衢」を合体させ、補正を施した著作である。
 義門は天保十四年五八歳で病没するまでに、「山口栞」「指出廼磯」「活語指南」「玉乃緒繰分」など多数の書物を著した。それらにより契沖以来先学の考究した言語の活用を整理し、新たな活用の形式を定め、動詞・形容詞・助動詞の研究を進めた業績は、現代の国文法の基礎を築いたものとして、高く評価されている。



目次へ  前ページへ  次ページへ