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 第五章 教育と地方文化
   第三節 新しい学問
     二 国学の発達
      八木静修の越前来遊
 天保七年(一八三六)十月、本居宣長の長子春庭門下の国学者八木静修(橘尚平)が、初めて越前に来遊した。静修は国語学や歌学に業績があり、全国を遊歴して国学を教授し、東條義門没後の小浜でも、静修を師と仰ぐものが少なくなかったと伝えられるように、各地の若者に多大の影響を与え、安政三年(一八五六)四八歳の時、彦根で病死した人物である(『国学者伝記集成』ほか)。
 福井を訪れた静修は、堂上派の歌風を厳しく批判し、古今・万葉調の古体の歌こそ真の歌であると説いた。また、儒学全盛の風潮を慨嘆し、日本の古典を学び、日本人としての自覚を確立する必要があり、そのためには鈴屋大人(本居宣長)の学問をこそ学ぶべきであると教導した。こうした静修の講義に感激し、本格的な国学学習を決意したのが、福井藩士中根雪江(寄合席)である。雪江は、それを契機に宣長の著述を中心に勉学を開始し、江戸詰となった天保九年五月、越前人として最初の平田篤胤門人となり研鑚することとなる。
 福井における八木静修の講義の状況、それを聴聞した雪江の感動と決意、平田篤胤への入門の経緯などについては、「天保十一年四月廿日、藤原友尚三回斎会、憶往時哀慟聊述拙懐作歌」と題する雪江自詠の長歌に、詳しく叙述されている(福井市春嶽公記念文庫)。
 篤胤に入門した雪江は、師の学塾気吹舎に通って、熱心な学究に明け暮れた。当時京都で組織された温古会の国学者たちが、天保十三年九月に発刊した紀要「嚶々筆話」には、篤胤の新著「春秋命暦序考」の自序が収録されていて、それは岡部東平が中根雪江から借用し書写したものである旨、注記がある。雪江が第一線の国学者たちと盛んに交流し、学識を深めた様子を物語るものであろう。



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