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 第五章 教育と地方文化
   第三節 新しい学問
     二 国学の発達
      越前における国学興隆の基盤
 幕末の福井藩主松平慶永(春嶽)が、その著「真雪草紙」の「古体歌の事」の条中で、「越前は東西本願寺門徒多くして、大寺の住職は多くは公卿より養子、又は結婚ありて、夫故か和歌をよむ者寺方に別て多し」と述べたように、越前では僧侶の中に詠歌をもって名を知られた者が少なくない。そして、江戸時代中期から後期にかけて、それに刺激されてか、武士や町人の間でも堂上派(公家歌人の流派)の歌道を学んで、名をなす者が登場した。
 福井藩士では、延享(一七四四〜四八)の頃烏丸家に師事した近藤広武、寛政(一七八九〜一八〇一)頃冷泉為村の添削を受けた菅沼吉次・多賀谷雅広・小川英長などが知られるし、同じ為村門下では金津の商家坂野致知(一七九九没)、為村の子冷泉為泰の門人としては、福井城下の町医山室松軒(一八〇三没)などが有名である。
 堂上派の歌風は、江戸時代に入ると次第に形式に流れ、清新さを失う傾向をみせた。そのため、三国の富商内田庸(号耕斎、一八三五没)は、京都の国学者で歌人としても著名な富士谷御杖に入門し、丸岡藩士浅海澳満は、江戸の国学者加藤千蔭(賀茂真淵門人)に教えを乞うなど、新しい歌風を求める者も出てきた。とはいえ、そうした人々の関心は、あくまで詠歌の道を習得することに向けられていたから、文献学的方法によって広く我国の古典を研究し、儒学や仏教が伝来する以前の日本古来の道(古道・惟神の道)を究明せんとする国学が、本格的に発達することはなかった。しかし、このような歌学の流行は、越前においてやがて国学が興隆する素地を形成したということはできよう。
 本居宣長が、没年である享和元年(一八〇一)まで九年にわたり書き継いだ随筆『玉勝間』(第六〇二)には、日本の「物産の学」の完成に志を持つ越前府中(武生)の薬商伊藤多羅(近江屋東四郎、一八二二没)が、自著を携え伊勢松阪の宣長を訪問して批評を願い、宣長から激励を受けたことが記録されている。多羅の家業からいって、「物産の学」とは薬用となる動・植物や鉱物を研究する本草学のことで、この時宣長に示した著述とは、万葉集に登場する動・植物について考察した「万葉動植考」(『未刊国文古註釈大系』二)であったと思われる。
 多羅には文化元年(一八〇四)刊の「音韵新書」など国語学に関する著書もあり、日本の風土に基づいた本草学を樹立するに当たって、国学の成果を応用しようと努力し、当代国学の第一人者として本居宣長を敬仰したのである。しかし、多羅を中核として、越前の国学が振起するまでにはいたらなかった。



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