目次へ  前ページへ  次ページへ


 第五章 教育と地方文化
   第三節 新しい学問
    一 心学
      謙光舎
 心学講舎の設立と運営は、ほとんどが町方の有志でなされたが、鯖江の謙光舎は例外で、その設立は藩によるものであった。鯖江では以前から京都の心学者入江や柴田一作が道話を行っており(表150)、心学が広まっていた。これをさらに積極的に進めたのが藩士小倉喜藤兵衛であった。

表150 鯖江藩領への心学者の来訪

表150 鯖江藩領への心学者の来訪

 嘉永三年(一八五〇)七月、喜藤兵衛から出された心学教授所(謙亨舎、のち謙光舎)の取立願が認められ、九月には家中や町在の男女に対し、学舎において道話を聴聞するように命じた。また、同月には京都明倫舎の佐野庄六がやって来て、謙光舎に逗留し道話を行っている。謙光舎における心学の世話は、喜藤兵衛のほか倅の喜太郎や須子亀蔵(喜藤兵衛の三男)が当たった。喜太郎は同五年二月に、心学教授所の充実のため柴田一作のもとで約一か月間修行している(間部家文書)。
 嘉永四年九月二十四日の夜には謙光舎で道話が開かれ、舎から離れている今立郡下新庄組・東庄境組・東俣組へは「廻在」がなされている。さらに翌五年四月には、領内の組々からの道話願いに対して、丹生郡乙坂組と今立郡庄田組へは廻村がなされた。このほか町と陣屋付の村では、田植え時期であったので農作業に支障がないように、夜二日間にわたって謙光舎で道話が行われた(窪田家文書)。
 喜藤兵衛は安政元年(一八五四)九月には謙光舎主に任じられ、亀蔵は京都の柴田のもとで心学の修行を行うことになった。翌二年三月には修行中の亀蔵が一作とともに鯖江を訪れている。修行を終えた亀蔵は十二月に父喜藤兵衛に替わって舎主となり、心学の教諭に当たった。その後、亀蔵は三年二月に三舎印鑑を取得し、四年一月に一作が丹波田辺へ心学教諭に出かけた際、藩の許可のもと同道するほどであった。このように謙光舎は、柴田一作との関係が深く、一作自身も安政五年、文久元年(一八六一)、慶応三年に舎を訪れて道話を行っている(間部家文書)。
 全国の講舎では先師や亡友のための祭祀がなされ、祭儀のあとそれにちなんで道話が催された。謙光舎でも、安政三年八月二十四日には「石田先生御忌九月廿四日」を一か月早めて行い、「当舎中亡友追善式」も執り行った。この日の夕方には昼に続いて道話があり、陣屋付の村へこれに出席するように触れている(窪田家文書)。このように鯖江藩は謙光舎を中心として、積極的に心学の普及を図った。



目次へ  前ページへ  次ページへ