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 第五章 教育と地方文化
   第三節 新しい学問
    一 心学
      柴田鳩翁と柴田一作
 柴田鳩翁は、心学者となって間もない文政九年三月末に師である薩・・・・徳軒の代講として京都を立ち、大野へやって来ている。大野町の長興寺では数日間道話を行った。滞在中、大野藩士の笹島杢右衛門の屋敷を訪れている。この後、面谷銅山・勝山、坂井郡丸岡を訪れて道話を行い、六月下旬に帰京した。丸岡での心学聴聞は初めてのことであったので、聴衆はおびただしかった(『よしなし言』)。この年以降、鳩翁はたびたび大野を訪れている(表149)。

表149 柴田父子等の大野来訪

表149 柴田父子等の大野来訪

 鳩翁の道話の一例を『続鳩翁道話』から紹介しよう。越前へ出かけた際に聞いた「ある人の物がたり」をもとに構成されている。大野郡平泉寺村のある百姓が抱える小者の話である。この一五、六歳になる男は毎夜小便をもらすので、主人は困って、ついに馬小屋の二階に寝かせることにした。ここは丸竹を編んで簀子にしてあったので尿をもらしても下に落ち、馬の小便と人間の小便が合わさってちょうどよい肥しになった。しかし、その竹簀子は古く、竹に虫が入っていたところへ尿が重なり、ついに抜け落ちてしまった。男は下へ落ちたが、昼の仕事の疲れで寝込んだままで怪我もしなかった。迷惑したのは二匹の馬の方だったが、この馬は奇特なもので、腹も立てずこの男を踏むこともせず、後ろ足で壁を蹴って家の主人を起こした。次に、男の顔に鼻息をかけるやらなめるやらして起こした。目をさました男は驚いて、「檀那さま、馬が二階に上がりました」と大声をあげてわめいた。自分が二階から落ちたことは棚にあげて、馬が二階へ上がったとうろたえたことを例に、人の身勝手さを話し始めた。このようなことはよくあるもので、「おのれ(己)が本心のくもりは、ゆめ(夢)にもし(知)らず、ただ人がわる(悪)い、これがすまぬと、わが身を顧みず、めったに大声をあげてわめく人はこの小用たれの仲間」としている。お互いに立ち返って、腹のうちをよく吟味しないと、一生をうろたえるもので、「私心私欲、身びいき、身勝手がこげ」つくと、家にあっては「聟をいぢり、嫁をにく(憎)み、又夫をうらみ、姑をそしる」ようなことになり、ついには「あひて(相手)になる人」もないようになる。「我身を顧みるのが近道じゃ」と結んでいる。
 天保二年(一八三一)、大野を訪れた鳩翁は、八月二十三日在方から廻り始め、九月二十一日に大野を離れた(鈴木善左衛門家文書)。帰路、勝山の宝泉寺で道話を行い、福井では町奉行に願い出て寺院などで多くの人に道話を行った。また、狛帯刀の屋敷では家中の高知席を相手に道話をつとめ、さらに御泉水屋敷では藩主斉承の母貞照院の前で道話を行っている(『よしなし言』)。なおこの大野滞在中、笹島杢右衛門の四男熊五郎が鳩翁のもとに逗留して修行することとなった。同四年十月には、熊五郎が鳩翁の養子となることが藩から許可された(土井家文書)。熊五郎は一作(逸作・謙蔵)と名を改め、以後目の不自由な鳩翁にかわって代講として大野を訪れている(表149)。
 一作は毎年のように大野を訪れ、心学の講談・道話を行った。このほか、天保十年十月には「一学道話之本」五冊を藩主土井利忠に献上し、慶応三年(一八六七)七月には登城し、藩主利恒と家中やその子弟に道話を行っている。この時、一作は紋付の着衣を着ることを許され、三人扶持を与えられた(土井家文書)。
 大野藩は心学者による講談や道話の開催を積極的に奨励している。例えば、天保三年九月の大野町竜泉寺での講談に際して、在方一統へ聴聞するように触を出している(斎藤寿々子家文書)。在方への廻村では、藩から大庄屋代に命じられた百姓が、町方にあっては藩の指示のもと御用達や町年寄等が、会場の準備・運営や宿泊等の世話に当たった。同六年八月から九月にかけての廻村では、「心学者扶持米切米、路料、外ニ買物」などで銀九一四匁の費用がかかっており、これは在方の講の一つである「再寿講」から出された(鈴木善左衛門家文書)。巡回が終わると、藩から一作へ同十年に金三〇〇疋が下された。同十二年にも「例之通三百疋」が下されており、このような礼金は毎回与えられたようである。また、同十年六月鳩翁の死去に際して、藩は金二〇〇疋を贈っている(土井家文書)。
 道話には、藩から世話方の原田繁蔵(笹島杢右衛門の子)や柴田一作の兄に当たる笹島新次郎(父杢右衛門の死後家督を相続し、杢右衛門を名乗る)が一緒に廻っている。新次郎も心学の修行を積み、弘化元年(一八四四)には講釈や道話を行う者の資格である三舎印鑑と添状を京都明倫舎から得て、藩士としての務めのかたわら領内で道話を行った(鈴木善左衛門家文書、土井家文書)。



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