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 第五章 教育と地方文化
   第二節 地方文化の展開
     三 寺社参詣の普及
      日本廻国と二十四輩
写真122 日本廻囲供養塔

写真122 日本廻囲供養塔

 宝永六年(一七〇九)に大野郡野尻村の道悦は「日本廻国六十六部神社仏閣不残納経」(門仁右衛門家文書)のため出発した。廻国の動機としては、「日本国之順拝参詣」(武田知道家文書)「先祖為菩提順国」(天目屋九郎兵衛家文書)「諸国修業」(小森清兵衛家文書)などもみられる。二十四輩の場合は一般的に「祖師旧跡巡順拝」(高田達郎家文書)などの文言が記されている。この二つは長期の旅行になるため男性の一人旅の事例がほとんどであるが、例外的なものとして文化五年に今立郡白粟村の彦兵衛は妻と二人の子供を連れて出ている。文久三年(一八六三)に今立郡岩本村の奉公人の惣左衛門は商用に出た折、ふと諸国修業を思いついてそのまま出かけた。抜参りであるため関所手形がなく、偽の一札を作って旅を続けていたが、阿波で病気になりこれが原因で露見した。ひとまずは病身困窮の身であるということで宿継ぎに同郡岩本村まで送られてきている(岩本区有文書)。善光寺参拝や四国・西国巡礼の場合にも言えるが、旅の行程が長くなればなるほど病気さらには死への危険も高まった。これらの手形には、例えば「若行暮候節ハ一宿等被仰付可被下候、万一何国ニ而病気又ハ病死仕候ハゞ其御国其処之御作法之通り御慈悲之上以御取捨被成可被下候、全国元へ御付届ニハ及不申候」(森口徳左衛門家文書)とあるように、途中で死ぬことも覚悟のうえで出かけた。
 文化六年正月、大野郡坂東島村の糸右衛門は旧跡順拝のため国元を出立した。京都の医師宅で翌七年九月まで奉公してお金を蓄え、金毘羅山と善通寺を参詣した。途中で体の調子が思わしくなくなり、十二月二十二日に摂津の鍛冶屋村で一歩も歩くことができなくなった。本人の一日も早く帰国したいとの強い希望もあり、本国に身元を照会したところ本人に間違いないこともわかり、明和五年の幕府法令に基づき村継ぎ・宿継ぎで送られることになった(小林廣家文書)。
 旅先での事故としては、寛保三年(一七四三)近江竹生島参詣に出かけた敦賀浜島寺町の長右衛門が琵琶湖で船より落ち溺死し、木津浦に流れついた例がある(木津区有文書)。



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