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 第五章 教育と地方文化
   第二節 地方文化の展開
     三 寺社参詣の普及
      金毘羅参詣と四国・西国巡礼
 金毘羅詣と四国八十八か所霊場巡りは地理的な近さもあり、若狭からの参拝事例が比較的多い。天保十三年に三方郡日向浦の一四歳の娘が一人で金毘羅山と伊勢参宮のため熊川関所の通行手形を請求している例(渡辺六郎右衛門家文書)、嘉永二年(一八四九)大飯郡上下村の兄弟四人が一五日間の予定で金毘羅山に詣でた例(村松喜太夫家文書)、男一二人・女一人で金毘羅・伊勢参宮に出かけた例(渡辺六郎右衛門家文書)などがある。金毘羅詣にも講があり、天保四年の「金毘羅講帳」には年により人数に差があるが一人から六人の代参予定者が記されている(門前区有文書)。三方郡田井村では慶応元年(一八六五)七月に代参として一人を送り出している(竹長宗一家文書)。
 文政五年の「金毘羅参道中記」(高鳥昭吾家文書)によって具体的な行程をみてみよう。遠敷郡太良庄村の甚兵衛は五月二十日に小浜を出発、高浜から丹後の田辺へ、丹波に入り綾部、福知山を過ぎ丹波と播磨の国境の和田山を通り牧野新町に入った。二十五日は妙楽寺に泊まり、北条から仁豊野・鵤・正条と播磨国内を通過し、備前に入り三石・一日市・岡山、下津井から金毘羅参詣船に乗り二十六日に丸亀に着いた。金毘羅山に参詣した後はどこにも寄らず、行きとほぼ同じ道をたどり六月四日に帰宅した。日数は一五日間で費用は銀で三四匁五分であった。
 四国八十八か所巡礼は一人旅の事例が多く、本人の宗旨が明示された後にその動機があげられている。一般的な文言としては、「年来之心願有之」とあることが多い。「病身ニ付家業難相勤」(宮川五郎右衛門家文書)などと書かれている例もある。慶応元年の東鯖江村の男性は西国三十三か所・四国八十八か所巡礼を願い出たが、その文中に病気がちでもあるので各地の温泉で養生しながら廻りたいとしている。わざわざ他国まで出かけず、費用も日数もかけず、手軽に同じようなご利益を得るため、近辺の寺社・霊場を廻ることも行われた。嘉永四年の「新四国略図」「敦賀新四国道しるべ」(石井左近家文書)には敦賀近辺の六十六か所の巡礼地があげられている。時期はわからないが四国霊場六十六か所を勧請したものと考えられる。
写真121 往来一札

写真121 往来一札

 上下村の村松喜太夫家には、文政六年刊の「三十三所巡礼案内図」が残っており、西国巡礼もかなり盛んであった。ただし三十三所観音をすべてきっちりと巡拝することはなく、二、三か所は廻ってあとの日程の大部分は名所旧跡の見物に当てた。大野郡横枕村の野尻源右衛門は家来一人を連れ嘉永三年四月三日に西国巡礼を兼ねた旅に出かけた(野尻源右衛門家文書)。しかし三十三所観音のうち実際訪れたのは美濃の谷汲山と大和の長谷寺・興福寺など数か寺で、日数の大部分は名古屋周辺の寺社、京都・奈良の名所旧跡の観光に当てている。総費用は二二日間で土産代も含めて三両であった。



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