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 第五章 教育と地方文化
   第二節 地方文化の展開
     三 寺社参詣の普及
      諸寺への参詣
 伊勢参宮とならんであるいはそれ以上に人気のあったのが京都の両本願寺への参拝であった。とくに越前は真宗門徒が多かったこともあり、生涯に一度は訪れるべきとする考え方が強かった。安永四年(一七七五)正月の勝山藩の達しにも「伊勢并京都参詣致度もの無遠慮庄屋願御関所通手形申請参詣可致」(比良野八郎右ヱ門家文書)とあるように、村役人に願い出ればほとんどの場合許可された。雑家については大庄屋の裏判が必要といった藩もあったが、身分や階層にかかわらず本山に参拝したいと願い出れば許可された。事例としては、貞享三年(一六八六)に坂井郡谷畠村の男性一人が親の年忌に参詣しているのが最も古い(小島武郎家文書)。この場合は二月二十三日に出発し、三月十三日に帰国の予定になっている。史料の大部分が関所手形関係のものであるため、「板取御関所罷通女請状之事」として、女性が連れ立って参拝する事例が目立つ。元禄期から目立って増え始め、日程的には参拝のみであれば往復一〇日、長くて一五日間あればできた。男女を問わず集団で参拝する傾向も強かった。
 時期的には農作業との関係もあって三月と七月、とくに七月が多い。祇園社の祭礼を見物できる時期に合わせて出かけたとも考えられる。年齢的には一〇代の例もかなりあるものの、四〇代以降、六〇代が目立って多い。
 その他の寺への参詣としては信州の善光寺、天台宗真盛派の総本山坂本西教寺、日蓮宗総本山の甲斐身延山久遠寺などがあげられる。善光寺参詣は十九世紀に入る頃から多くなる。参拝の目的として「心願御座候ニ付」(村松喜太夫家文書)「先祖年忌供養之為」(福岡平左衛門家文書)などと書かれており、純粋に宗教的な動機で出かけている事例が多い。家族で出かける事例も少しはみられるが、一人で出かけることが多かった。南条郡鯖波宿の助左衛門(法名浄暁)は文化十三年の七月に善光寺参拝に出かけた。その後の消息は不明だが、文政四年六月に老いと病気のため越後糸魚川で歩けなくなった。回復を待って村継ぎでの帰国を願っており、その時の所持品は着物は別にして銭二〇〇文余、杖二本、笠、袋であった(石倉家文書)。その他、年は未詳ながら武右衛門母六一歳、弥右衛門妻四一歳、同娘の女三人が善光寺参詣のため国々御番所および細呂木御番所通行切手を要求している例もある。この場合は二か月を要しており、日程的には少なくても一か月、女の旅だと五〇日間は必要であった。途中親鸞の旧跡を尋ねたり、防火の霊場である遠江の秋葉山を廻って帰国することもあった。



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