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 第五章 教育と地方文化
   第二節 地方文化の展開
     三 寺社参詣の普及
      吉伴の参宮と行程
 丹生郡大虫村の岡野吉伴は生涯に四回伊勢参宮に出かけている。そのうち寛政八年(一七九六)、文化十年(一八一三)、文政七年(一八二四)の三度は旅日記として記録が残っている。とくに文政七年は妻も同伴しており内容的にも面白い(「参宮旅日記」大虫神社文書)。そこからは参宮に関する色々な情報を知ることができる。旅篭代はほぼ三〇〇文から三五〇文であること、酒一合は一五文が相場で、各茶店には名物が用意されており、食べ物のメニューも豊富で酒も常時呑めたこと、出立は六ツ時(六時頃)前後で黄昏時には宿に入ることなどである。この年、吉伴は六五歳とかなりの高齢であり妻も同伴していたが、それでも一日に約四〇キロメートル歩いている。途中の休憩は、昼食を別にして午前午後とも少なくとも二回とっており、履物も草履のためしばしば履き替えている。ところで吉伴は「参宮旅日記」の中で、若年の頃村の「子供連」と抜参りをしたと述べており、またもう一回参宮していることがわかる。彼の場合、神官という恵まれた境遇にあったせいであろう。また夫婦の会話の中で、妻がこの旅篭には以前も村の「女連中」とともに泊まったと述べ、道路に関しても同じ道を何度も通るのは面白くないなどと言っていて、彼女も少なくとも二、三回は参宮していることがわかる。
写真120 御師の門

写真120 御師の門

 日程は参宮のみの場合、「参宮旅日記」でも一二日間を費やしており、ほぼ一〇日から二週間といったところであった。行程は途中どこに立ち寄るかでいろいろなコースが考えられたが、越前からの場合だと北陸道を木之本から長浜へ向かい、途中中山道を通り鳥居本へ、愛知川で御代参街道に入り土山を経て鈴鹿峠を越え伊勢別街道に入り、津・松坂を経て宇治山田に二泊程して帰途につくというのが一般的であった。うち一泊は必ず御師の厄介になり歓待を受けた。吉伴の日記には記されていないが、坂井郡野中村の小島五左衛門が出かけたおりの土産物の例では、五文目蝋燭・煙草入れ・巾着・扇子・木数珠・水晶数珠・風呂敷などを購入している(小島武郎家文書)。
 伊勢参宮と称していても実際は名古屋や京都、奈良を回って帰ることが多かった。天保三年の「参宮道の記」(大虫神社文書)には伊勢の帰りに京都に立ち寄った記述がある。四月二十九日から五月五日まで京都に滞在しており、京都での観光コースは次のようになっている。一日目は午前に西本願寺、午後に六角堂・東本願寺・興正寺、夜は四条の夜店を見物。二日目は誓願寺・蛸薬師・方広寺大仏殿・三十三間堂・泉涌寺・東福寺・稲荷社を見物。三日目は祇園社・清水寺・知恩院・南禅寺を見物。四日目は黒谷金戒光明寺・真如堂・銀閣・吉田社・百万遍・下賀茂社・鞍馬山・上賀茂社・今宮を見物。五日目は大徳寺・金閣・北野天満宮・御室仁和寺・嵯峨清涼寺・愛宕大権現・天竜寺・嵐山・二条城を見物。六日目は東本願寺・仏光寺でほぼ見物しつくし、七日目は上賀茂の競馬に出かけている。



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