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 第五章 教育と地方文化
   第二節 地方文化の展開
     三 寺社参詣の普及
      参宮熱の高まり
 近世に入り伊勢御師が精力的に廻国を行い伊勢神宮への参拝を呼びかけた結果、伊勢参宮熱は徐々に高まっていった。元禄元年(一六八八)に坂井郡清永村の四四歳の尼の参宮願いが出されていることからもうかがえるように(小島武郎家文書)、十七世紀の末頃から女性も含めて伊勢参宮が一般化しつつあった。とはいえ個人が支出するにはあまりにも大きな負担であるため、村で講を結び鬮に当たった者が代参する伊勢講も各地でみられるようになった。用留には毎年決まってほぼ同じ月日に伊勢に出発する記事がみられ(窪田家文書)、年中行事化していたことがうかがえる。弘化元年(一八四四)の「御伊勢様参吉悪之事」(森口徳左衛門家文書)には巳・午年出生の者は卯・申・戌の参詣が大吉とあるように、それぞれの干支に該当する者が何人かで連れ立って参宮することもみられた。天候不順で虫付などの被害が出た場合、特別な祈外字を委託して代参を出すこともあった(窪田家文書)。

表147 東鯖江村の女性の伊勢・京都参詣と湯治(1738〜77年)

表147 東鯖江村の女性の伊勢・京都参詣と湯治(1738〜77年)

 表147は今立郡東鯖江村における江戸中期の旅の事例を抜き出したものである(窪田家文書)。関所通行手形の関係もあって女性のみあがってきているが、男性はそれより以上に多かったと思われ、おおよその旅の傾向はつかむことができる。年による変動が激しいものの伊勢参りが群を抜いて多く、集団での参宮も目立つ。女一人の事例も実際は夫婦あるいは親子で出かけているものと思われる。
 時には抜参りといって親や主人の許可を得ず出かけることもあった。しかしまとまった史料としては少なく、明和八年(一七七一)四月頃から抜参りが流行し八歳から五四、五五歳の者まで銭も持たずに出かけた(三方町古文書)、天保三年(一八三二)に勝山立石町の喜八が昨晩八ツ時(午前二時頃)抜参りに出かけたと組合より町庄屋へ届けた(仙田昇家文書)などが知られるにすぎない。



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