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 第五章 教育と地方文化
   第二節 地方文化の展開
    二 夢楽洞万司
      「まんし天神」
写真119 まんし天神

写真119 まんし天神

 県内では嶺北地方を中心に、正月に天神画の掛軸を飾る風習が残っている。これは長男出産の際に妻の実家から贈られたものを床の間に掛ける習わしである。一月二十五日の「天神講」には、梅と松を飾り、御神酒や鏡餅を用いたぜんざい、尾頭つきの焼鰈などを供えるところが多く、この日を最後に天神飾りを納めるのである。また同じ嶺北でも、丹南地域のように掛軸に代わって天神を型どった木像や土人形を飾ることが盛んなところもある。天神をまつる風習については、調査研究の成果が少なく、まだまだ不明な点が多い。
 夢楽洞は絵馬ばかりでなく、天神掛軸の製作も手がけていた。それは「まんし天神」と呼ばれ、上半身を大きく描くことに特徴があった。座像や立像を描く一般的な天神画に比べ、たいへん大胆な迫力のある構図で、見る者にとても強烈な印象を与える。寛政期に流布した東洲斎写楽や喜多川歌麿に代表される役者絵や美人画の版画大首絵の手法に酷似しており、美人画を思わせる瓜実顔の天神似顔絵になっている。
 もう一つの特徴は、小指を立てていることである。天神が右手の小指を軽く伸ばす仕草が画面に微妙な動きをもたらし、学問の神様という堅苦しいイメージを払拭する。天神が、型にはまった伝統的なポーズにしびれを切らしているかのようにも見える。この小指の仕草もまた、歌麿の美人画によくみられるものであるが、この場合は、しいて男児の性器(指似)を表しているのではないかと思われる。さりげなく立てた小指に、男児の誕生・成長の祝福の意を表現したのではないかと考えられるのである。いずれにしても、この風変わりな天神画が往時の人々に受け入れられ、絵馬とともに流行したのであった。
 その成立時期は、江戸で大首絵ブームが起きた寛政期からさほど後の時期ではないと考えられる。天神画の場合は仏画と同様に信仰の対象そのものであり、製作年月や絵師の号を記すことがなかったようだ。そのため確証は得られないが、今のところ顔料の使い方や描法の特徴などからして、夢楽洞の絵馬の製作が一定の軌道にのった二代万司の時期、文化・文政期ではないかと推測される。
 絵のバリエーションには、正面向き、左前方向きの二種類の構図に、平静な表情とにらみ顔などのいく種類かの組合せが見られる。ほかに、大首絵ではなく全身を描いたものとして、牛乗りの座天神や台座にすわる天神もあった。天神の背景には、梅と松の木、あるいは梅鉢紋の入った垂れ幕を描いたものが多い。垂れ幕の部分を輸入顔料のウルトラマリン(群青)を使って彩色したものが、江戸末期以降のものであることは明らかである。だが、こうしたバリエーションがいつ派生し、また変化したのかは明らかでない。さらに、幕末から明治前期に製作されたと思われるものに、骨描(下絵)に版画を用いたものがある。版画の輪郭にしたがい手彩色・上描きが施されている。これは最も安価な普及商品であったと思われる。この版画化が、いつの時期に開始されたのだろうか。夢楽洞工房の発展、また同時に嶺北地域における天神画の普及の過程を知るうえで、このことの解明は今後の重要な課題である。
 この「まんし天神」にも、絵馬と同様に、構図が類似するが筆遣いのやや異なるもの、疑似商品か素人の模作品と思われるものがたくさん存在する。これらを整理分類し、製作時期や絵師の特定、夢楽洞の商品であるかないかの真贋の基準を明確にするには、まだ資料の収集が十分に行われていないのが現状である。ちなみに、天神の絵は地元で描かれたものが良いとされ、絵画としての優劣はさほど問題にされていなかったようである。
 また、紙本に泥絵具を使って彩色されている点も、絵馬と同じく高級品を志向したものではなかったことを物語っている。夢楽洞は、伝統的な絵馬や天神画に浮世絵界の流行を取り入れ、これらを庶民が手の届く商品として売り出すことに成功したのである。もちろん、その背景には地域社会における民衆的な文化の興隆、受容の広がりがあったことは否めない。しかしその一方で、夢楽洞の商法が、それをさらに推進する牽引力となったことも見過ごすことはできない。



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