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 第五章 教育と地方文化
   第二節 地方文化の展開
    二 夢楽洞万司
      絵馬の製作
写真118 最古の万司仙人筆絵馬

写真118 最古の万司仙人筆絵馬

 この万司仙人が、絵馬をかき始めた。安永期以降、万司仙人の絵馬が増え始め、繋馬・曳馬の馬図のほかに、様々な物語図もみられる。絵解をするように複数の場面を合わせて描き、時には人物の名前を注記している。まるで絵本の挿絵を見るかのようである。また、画題に合わせた付句を添え書きすることもあり、そこには雑俳宗匠としての一面がうかがわれる。これらの点は、夢楽洞の絵馬でも初代万司仙人のものだけにみられる特徴である。
 初代の絵馬は、わずかな期間のうちに、越前はもとより、遠く能登方面にまで流通した。富山県氷見市と石川県穴水市に、天明・寛政期のものが現存する。これらは、先の雑俳ネットにのって伝えられ、運ばれたものと考えられる。もう一つ、万司仙人の絵馬で見逃せないのは、例えば「同行五人組」のように連名で奉納されたものが多いという点である。グループ旅行の土産・記念品であったことが想定される。後代の絵馬には、裏書きから、真宗門徒による京都本願寺参りの記念品であったと思わせるものがある。
 その後「万司仙人」の号は、寛政三年を最後に、同四、五年に「万仙」と代わり、六年以降は見られなくなる。そして、享和元年(一八〇一)までは「仙家」の号が使われる。仙家の絵は完成度が高く、絵師として円熟期に入った万司仙人晩年の作と思われる。その後、享和期に新たに「万司」の号が見え始める。次代万司の登場である。この時期に至ると二代万司は雑俳の世界を離れ、先代がレールを敷いた絵馬の製作・販売に専念し始めたようだ。
 文化(一八〇四〜一八)・文政(一八一八〜三〇)期には、万司工房で絵馬の大量生産が開始されたことを思わせる事象が確かめられる。その一つは、馬の構図が画一化してくることであり、もう一つは、分業を示唆する型紙の使用が認められることである。また、天保(一八三〇〜四四)期に入ると、万司(栄仙)のほかに「馬琴」を名乗る絵師が現れる。夢楽洞には、少なくとも二人の絵師が同時に存在したのである。それぞれの絵師のもとに異なるプロジェクト・チームがあったと考えられるが、これが同一工房でのことなのか、それとも新たな工房が出現したのかについては、まだ判明しない。なお、幕末から明治期にかけても、絵の構図や彩色法の違いから、同じ「万司」を名乗る複数の絵師・プロジェクトが活動していたことが指摘できる。絵馬の普及とともに、工房も発展を遂げていったのである。
 ちなみに、夢楽洞の絵馬には絵師の銘のないものがある。これらは、量産される中で絵師がまったく関与しなかった作品と考えてよいだろう。また、夢楽洞の絵馬に似ているが、微妙に異なるものもないわけではない。時代が下がるにつれて、夢楽洞の絵馬を手本にした素人の作か、あるいは夢楽洞を意識した疑似商品なのか、いずれとも判定しがたいものが増えていく。絵馬ブームにともない、類似の商売を行う者も現れたのであろう。



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