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 第五章 教育と地方文化
   第二節 地方文化の展開
    二 夢楽洞万司
      「夢楽」の発想
 金津町土屋家に万司仙人にかかわる文書が残されている。内容は、明和二年、福井城下小田原町の苔古庵の前で旅人が落馬して死に、庵主の「万司」(万司仙人を指す)がその世話をするという出来事を物語風に記したものである(土屋豊孝家文書)。何かの写しであるのか、文書の性格については明らかでない。万司の手による戯作の類が流布したものとも考えられる。
 そこでは、まず「万司あたま(頭)ニ毛あるといへ共、心ハ仏道をさと(悟)り、第一ニして皆人まんし和尚と俗ニいふ」とあり、万司が仏道に通じて「まんし和尚」と呼ばれていたことが知られる。そして、苔古庵の中は、「四季の花、儒仏神をかざ(飾)り、日本の名所を寄あつ(集)め、天井にはさくら(桜)、なげし(長押)には金銀の風車、俗此世の極楽ならんか」という様子で、「貧家にす(住)みて貧をたの(楽)しみ、月雪花をあい(愛)すゆへ、当国はいふにおよばす、門弟多し」というのである。万司は、儒教・仏教・神道のいずれにも通じ、栄華と貧とをともに楽しみ、旅と自然を愛する、多芸多才な人物であり、彼を師と仰ぐ門弟が他国にまでいるというのである。「万司」こそ、大胆にも「万の司」であることを広言する号であったのだろうか。
 では、そもそも彼が好んだ「夢楽」とは、いったいどのような発想であったのだろう。先述した小林家文書の雑俳句額を写した綴りには、それぞれに戯文が書き添えられており、「万司仙人は凡百年も夢なりと御仰ありて、安房をおもしろいと御考、折々指似を御たて候」云々と、万司仙人に仕える太郎冠者の語りが続く。「極楽ハ都の嶋原に東にハ、名もよしはらの色のふね」などと全国各所の遊郭を俳文調で詠み込んだ一節や、川で衣を洗う娘の脛を見て通力を失い墜落したという久米仙人の説話をもじり、遊女を目にした万司仙人が「通ふ」(通力)を失い、煩悩を起こすというくだりもある。最後の三国上新町「弁才天」の句額の序は、「ぼんのう(煩悩)を、しめすみくに(三国)の、しやら(・・・・・・落)(遊女)によらい(如来)」「指似(小児の性器)をばたてゝ、まんし拝ミぬ」の連句で締めくくっている。この一連の戯文は、遊女・遊郭と万司との関係を、仏・極楽と通力をもった仙人との関係に見立て、もじったものである。万司仙人の「夢楽」は、芝居とともに庶民文化の拠点となった遊郭の世界を一つの背景にしていたことは相違ないであろう。三国上新町の女神「弁才天」を初め、雑俳句額が奉納された各社は、祭礼や休日に遊女たちが集う場所であったと思われる。なお、「弁才天」は『越前国名蹟考』によれば俗称であり、正式には宗像社と呼ばれ、社家は三国遊郭付近の牛頭天王社の井上石見が兼務していた。
 さらにまた、三国町黒目の称名寺には、万司仙人辞世の句を刻んだ石碑が残っている。碑は、安永七年まだ生前に建立されたものであり、句は「名月や、薄ハ薄、萩は萩」「楽めよ、此朝皃の、花盛り」とある。これもパロディーの一つなのであろうが、その心は、名月を慕っても薄は薄、萩は萩にしかすぎないが、この現実を翻して、朝顔の花の咲き乱れる刹那(現世)を大いに楽しむべし、と解することができよう。
 すなわち、万司仙人の「夢楽」の発想は、この世はすべてつかのまの夢であり、どうせ夢なら「阿呆」になって楽しむ方がよいという、きわめて割り切った現実主義の立場にあったと思われるのである。これは、当時江戸で出版された草双紙の類で、人生のはかなさを例えた中国故事「邯鄲の夢の枕」を下敷きにした戯作のモチーフに通じる発想である。代表作には、恋川春町の黄表紙『金々先生栄華夢』(安永四年)があげられる。こうした現世のはかなさとその対局の享楽を結びつけた夢物語の筋立ては、すでに寛文(一六六一〜七三)年間の『浮世物語』や延宝八年(一六八〇)の『元のもくあみ』など、江戸初期の仮名草子にもみられる。現世を「浮世」とみなし、享楽をもってこれを積極的に謳歌しようとする現実主義が、この時期にいたり、いっそう広く受け入れられようとしていたのである。万司仙人の発想もこうした社会状況を背景に成り立ったものと考えられる。
写真117 「万司仙人」句碑

写真117 「万司仙人」句碑

 万司仙人は、辞世の句に添えて、「万司仙、地水火風の、かり物を、ついにハなして、空に飛去」「読経之声、松を吹風涼し」と詠んでいるが、ここに自らの人生もついに夢と終わることを披瀝したのである。また小林家文書の戯文には、万司仙人は先年の福井城下の大火で家屋財産を焼失し、「栄花の庵も忽にけぶり(煙)」となり、「無一物の草庵」を構えたという一節もある。まさに「元のもくあみ」の境地にこそ、何ものにも規制されない「夢楽」の発想が開かれることを言おうとしたのであろう。そうした意味でも、厭世・無常観を克服する手段としての積極的な楽天主義を説いたのであり、これをすすめて現世の夢を楽しむ術を売り物にしようとしたのである。こうした「夢楽」の発想が、人々の心をとらえ、雑俳師匠につづけて絵馬師としての万司仙人の名声が広がっていったと考えられるのである。



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