初代は、当初雑俳の選者(宗匠)として活躍した。「万司(大)仙人」の号を名乗り、「亜呆堂」「夢楽人」「夢楽庵」など、初めは様々な冠号を用いていたが、後に「夢楽洞」を好んだようである。雑俳とは、「雑体の俳諧」として呼ばれたもので、うがちや滑稽、機知、パロディーを楽しむ娯楽本位の俳諧として人気を博したものである。宝暦(一七五一〜六四)・天明(一七八一〜八九)期には、江戸では「川柳」が選者となり、前句を出題して付句を応募する万句合の興行が流行した。興行は、手数料(入花料)とともに投句された作品から勝句(入選句)を選び出し、褒美を与えたり刷物に公表するという手順を採った。作句者と選者の間には、作品と手数料、入選賞金などの取次機関が置かれ、多くは同好者仲間でつくる「連」や「組」がその機能を果たしていた(日本古典文学全集『黄表紙・川柳・狂歌』)。万司仙人も、これとほぼ同時期に越前の各地で雑俳の句合を興行していたのである。
現在、確かめられるところでは、大野市木落の白山神社、池田町常安の日野宮神社、美山町折立の白山神社、松岡町上吉野の蔵王権現社の四か所で、万司仙人が選者をつとめた勝句披露の雑俳句額が奉納されている。また現存しないが、かつて三国の「日和山観音堂」「弁才天」、金津の「白山堂」、武生の「惣社太神宮」にも同様な句額が奉納されたらしく、その内容が記録に残っている(小林家文書)。句合への投句の範囲を勝句者の居住地からみてみると、北は能登・加賀、東は美濃、南は近江・京・大坂におよび、地元の越前では町部を中心に山間の村々にまで広がっている。表146は、大野市木落の白山神社の句額にみられる勝句者の一覧である。投句者名には、個別の号のほかに、「連」「連中」「巻」「巻中」「組」「組連中」「堂」「堂巻」などの、俳諧にかかわる仲間や組織・機関を表す名称が多くみられるのである。 |