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 第五章 教育と地方文化
   第二節 地方文化の展開
    二 夢楽洞万司
      「夢楽洞」
 「夢楽洞」は、江戸後期から明治・大正期にかけて、福井の町で絵馬や天神画(掛軸)などを製作・販売した工房かつ店舗であったと推定される。その店は、福井城下の北西端、北陸道に面した小田原町にあった。明和(一七六四〜七二)から寛政(一七八九〜一八〇一)期の初代絵師(万屋曽平、または大岡曽平を名乗る)以降、四代から五代にわたって「夢楽洞万司」の号を受け継ぎ、絵馬や天神画などを描いた。明治初年の段階では、絵草紙やその他出版物の販売も手がけていたことが確かめられる。
図26 越前の絵馬(1621〜1940年)

図26 越前の絵馬(1621〜1940年)

 図26は、越前全域で調査した約四〇〇〇枚の絵馬のうち、奉納年が明らかなもの(一部推定を含む)の数を、一〇年ごとにグラフに表したものである。十九世紀の後半、江戸末期から明治前期にかけて大きなピークが形成されることがわかる。安永(一七七二〜八一)期までは、あまり大きな変化がみられないが、明和末年の夢楽洞絵馬の出現とともに、絵馬の数はいっきに増加する。とくに十九世紀初頭前後は夢楽洞絵馬が圧倒的な比重を占め、越前の絵馬ブームを先導したことがよくわかる。
 県内で夢楽洞の絵馬が現存するのは、越前に限定される。今のところ、若狭では見られない。また後半期の絵馬においては、夢楽洞のものを除くと、敦賀以北の越前海岸に多く分布する、いわゆる「船絵馬」と「武者絵馬」の占める割合が大きい。これは、海運を通じて大坂方面から搬入されたものであり、海岸部では大坂の絵馬と福井の夢楽洞の絵馬とが競い合うように奉納されている。



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