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 第五章 教育と地方文化
   第二節 地方文化の展開
    一 芸能・娯楽の発達
      遊郭と遊女
写真116 三国遊廓(「三国浦絵図」)

写真116 三国遊廓(「三国浦絵図」)

 町人たちの遊興の場として、多くの城下町・湊町には町はずれに隔離された状態で遊郭が置かれていた。福井城下では先述したとおり誓願寺町にあり、町の入口には木戸が設けられ、家中は木戸の内へ入ることは許されなかった。
 三国湊では、当初松ケ下にあったが、湊が西へ伸びるとともに、西へ移動し、万治二年に町立てされた上新町に牛頭天王宮が勧請されるとその周囲に集まるようになった。また、それに続く丸岡藩領の滝谷出村にも遊女町が形成された。寛政元年の上新町の戸数は高持七八軒、無高三二二軒、合計四〇〇軒であり、人口は男五一〇人、女六四〇人であった。そのうち遊女持の家(置屋)が二二軒、遊女は一〇〇人であった(『三国町史』)。慶応元年(一八六五)には遊女持二軒(遊女二六人)、置屋から遊女を呼んで遊ぶ揚屋が一一軒、軒見世二八軒(売女三七人)であり、町内天王社の境内には芝居の常設小屋があったことが知られる。滝谷出村については、享保五年に「家数三百七十、傾城八十五人、流行長谷川」という記録がある(『三国町史』)。この長谷川というのが、俳諧で著名な哥川であり、彼女のように相当な教養を身につけた遊女もいたのである。
 敦賀湊では、慶長十年頃笙ノ川と児屋ノ川に挟まれた川中の上嶋寺町から、児屋ノ川の東に当たる川東の、後に丁持町の枝町となる三ツ屋町と六軒町に遊女が移された(「疋田記」)。寛文元年から六軒町の裏手の潮入田を埋め立てて新町が町立てされ、三ツ屋町・六軒町・森屋敷とともに川向花街といわれるようになった(『敦賀市史』通史編上巻)。天和二年頃には、轡屋(置屋)が六軒町に七軒(上女郎二五人・下女郎三八人)、三ツ屋町に一軒(同一〇人・五人)あった。揚屋は三ツ屋町に九軒、新町に八軒あった(「遠目鏡」)。延宝六年の「色道大鑑」に「敦賀の遊郭は六軒町といふ、挙屋の居る所をみつやと云ふ、傾国の遊料一六匁、つぎは一〇匁なり、端女は六匁宛」とあり、一夜の遊料を知ることができる。また、「遠目鏡」には芝居が新町にあって役者が四〇人余いたことも記され、寛政十一年の町絵図には新町に芝居小屋が描かれており、福井城下と同じように遊郭と芝居が同じ地区に置かれていたことがわかる。なお、笙ノ川の西のお茶屋(陣屋)の北側にも遊女がいたが、その後川東の三ツ屋町に移され、真願寺の東側にあった芝居小屋も森屋敷に移されたとあり(「敦賀志」)、万治から寛文にかけて遊郭・芝居などを川東に集中させたのである。
 なお、元禄元年頃の「諸国色里案内」によれば、越前には南条郡今庄・府中、坂井郡金津、丹生郡吉江にも水茶屋のようなものがあったと記されている。遊料も記されており、宿泊した場合、今庄は五、六匁、府中は二、三匁、金津・吉江は三匁から五匁であるが、三国は別格で、安くても六匁、揚屋で遊ぶと一〇匁であった。
 小浜においては、藩から遊び茶屋が許可された町として三丁町(西三丁町)があった。この町は西のはずれの柳町・漁師町・寺町の通称である。寛永十七年の家職調に「形城屋(傾城屋)」が一軒みえるので、この頃に遊郭があったことは知られるが、三丁町に関する記録としては、『拾椎雑話』の「寛文五年五月四日、柳町肌か鍛冶と申者の娘かちと申す傾城有之」というのが最初であり、延宝七年には柳町から他の町に遊女を置かないようにしてほしいという願いが出され、藩がそれを認めたことも知られる。しかし、天和三年の家職調(『拾椎雑話』)にも、明和七年頃の家職(『稚狭考』)にも傾城屋や遊女はみられないので、かなりの間廃止されていたと思われる。
 しかし、「小浜繁栄、就中延宝より元禄之頃、宝永・正徳(一七一一〜一六)はさらなり、毎日遊客の酒飯をまかなひ致は永教寺・西林寺・専光寺・妙興寺の塔頭、其外与阿弥、西入、皆川なと……乱舞優曲の声たへず。享保の始より年々衰廃に及ふ」と『拾椎雑話』に記されているように、町の西部では遊興の場を提供する者がいたことがわかる。
 三丁町で遊郭が再び許可されたのは、享和三年(一八〇三)のことであり、藩は遊び茶屋一軒から銀二〇〇匁、芸子一人につき銀六五匁ずつの運上銀を取り立てた。その総額は、当時の町に課された夫代銀の総額に匹敵する一〇貫匁余にものぼった。しかし、文政元年(一八一八)五月に漁師町にあった庚申堂の前で家中の若衆と町人とが大喧嘩したことを契機に、翌年三月に三丁町での遊び茶屋の営業が藩によって停止され、商売替えの資金として一軒に銀三〇〇匁、他国から来ていた芸子には路用として金一両ずつが与えられた。これによって、三丁町は次第に衰微し、また内々に男女の宿をする者もあったため、藩は天保十三年(一八四四)に茶屋職の名目で、三丁町に限って営業を許可し、他町でも茶屋職をしたい者は、三丁町の者と対談のうえ、営業する場合には同町へ移り住むように命じた(『小浜市史』通史編上巻)。



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