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 第五章 教育と地方文化
   第二節 地方文化の展開
    一 芸能・娯楽の発達
      若狭申楽
 忠勝が倉座を自慢したことは先に述べたが、若狭には元は四座があった。この四座の申楽は、若狭はもとより、敦賀郡・高島郡の郷村の祭礼にも出向いていた。若狭一円では年間七四度も各地で申楽を演じたという(『稚狭考』)。この四座とは『拾椎雑話』にいう「倉氏・尾古・吉祥・気山」の四座であり、「いつとなく倉を頭として三座は従いける」というようになった。酒井忠直は寺井清兵衛という京で名のある能楽師を二〇〇石で召し抱えたり、江戸の囃し方狂言師ワキ師梶木庄兵衛・寺石権右衛門を召し抱えている。倉座の者は彼等の弟子となり、また、町人の中にも習う者があったことを伝える。忠勝は、寛永十九年閏九月四日、倉太夫一座に対して物を与え(「酒井忠勝在国日記」)、倉氏などの舞衆を庇護したが、忠隆は能を好まず、城内の舞台もたたませた(『拾椎雑話』)。忠囿の代には、「能はやし(囃)度々有、御近習衆にはやし方あり、町人も相務候」とあり、能が好まれたことがわかる(同前)。
 一方、申楽の頭を務めていた倉座は、元禄元年(一六八八)四月十五日、倉小兵衛が吉祥座加茂村の茂兵衛から借りていた能衣裳を破損したので新調するため勧進能を挙行し、さらに、享保十年四月には、倉小左衛門の能装束新調のための勧進能を挙行していることから、その職分に応じた扶持は与えられていなかったようである。八幡宮の大鳥居が建て替えられた元禄七年閏五月には、倉座一座のほか、ワキ役に江崎庄左衛門・梶木庄兵衛、鼓に西村次郎左衛門、狂言師として豊岡弥三五郎等大勢の式能楽師が京都から招かれて二十六日から二十八日まで勧進能が盛大に挙行されている。同十二年の放生会には京都から清水五郎左衛門・清水甚助・岡畑次兵衛等が来浜し、八幡宮で狂言を演じているが、このうち岡畑次兵衛は狂言指南として小浜にとどまり、弟子が多かったという(『拾椎雑話』)。
 このように、小浜の狂言・申楽などの芸能は、京都観世の流れを汲む者の指導によって盛大に行われたものと、江戸時代以前に若狭の農民の中から発生した申楽とが共存していたといえる。『拾椎雑話』に「小浜町人の間では一節うならない人はいない」というほどであったというし、能・狂言の演題の中に「若狭小浜の召しの昆布めせ」という文句が残されていることからも小浜における申楽や能の盛況ぶりが推察できよう。



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